「自分は今日の正午に死ぬだろう」

その日、重三郎は「自分は今日の正午に死ぬだろう」と予言したとされます。それだけ気力・体力含めて衰えていたのでしょう。自らの死期を悟った重三郎は、「家事」について「処置」した後に妻と別れの言葉を交わします。ちなみに「べらぼう」では、重三郎の妻は「てい」と言い、女優の橋本愛さんが演じています。

妻と別れの言葉を交わした重三郎でしたが、予告した正午になっても息絶えませんでした。その時、重三郎は「命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らないな」と述べ、笑ったとされます。ところがこの言葉の後、重三郎が口を開くことはありませんでした。同日夕刻、重三郎はこの世を去ります。48歳でした。

重三郎は生前「志気英邁しきえいまい」で細かいことにこだわらず、人と接する時は「信」をもって接したとされます。そうした性格が一癖も二癖もある多くの作家を惹きつけて、共に仕事をしようという気にさせたのでしょう。重三郎の世話になったこともある滝沢馬琴は気難しい性格と評されていますが、重三郎の死を悼み「夏菊にむなしき枕見る日かな」との歌を残しています。

パリでディオールのイベントに登場した横浜流星(「べらぼう」の蔦屋重三郎役)、2024年9月24日
写真=dpa/時事通信フォト
パリでディオールのイベントに登場した横浜流星(「べらぼう」の蔦屋重三郎役)、2024年9月24日

2代目蔦屋になったのは誰か

重三郎は48歳で亡くなりますが、蔦屋はそれで途絶えた訳ではありません。重三郎には跡継ぎがいたのです。しかしそれは重三郎と妻との子ではありませんでした。このことから二人の間には子はいなかったと推測されます。では蔦屋を継いだのは誰か。

それは番頭の勇助でした。重三郎の死後に番頭・勇助が養子となり2代目「蔦屋重三郎」となるのです(本稿では紛らわしいので、勇助もしくは2代目と記述していきます)。重三郎が亡くなる直前に「家事」について「処置」したことは先述しましたが、おそらくその時に「勇助に跡を継がせよ」ということを妻に話したと思われます。番頭の勇助は重三郎からかなりの信頼を得ていたと考えられます。

2代目「蔦屋重三郎」となった勇助ですが、日本文学研究者の評価は残念ながら高くありません。例えば「初代が敷いてきた路線をそのまま延長していく技倆ぎりょうは二代目には備わっていなかった」などと評されているからです(鈴木俊幸『蔦屋重三郎』平凡社)。刊行された黄表紙などが低調だったこともその評価に響いているようです。