新しい女中は、セツを“夫人”と呼んだ

この雇われた女中が、セツの縁戚にあたる18歳の高木八百だった。この八百は1940年に八雲の研究者・桑原羊次郎の取材に応じている(『松江に於ける八雲の私生活』山陰新報社1953年)。ここで、八百は自分が女中奉公した家がどこだったかを問われて、こう答えている。

私の奉公いたした時の八雲先生のお宅は、末次町通り即ち京店の御掛屋(両替店)の地内で、折原と申す人の借家でありまして、その位置は、京店の本通りより左方御掛屋地内に入り、その前を左に行った所即ち湖水べりの家でありました。私が行った時には、節子夫人ご結婚後間もない私の18歳の時でした。

この「借家」は、八雲が冨田旅館を出た1891年2月以降に住んだ家で、6月には退去している。この間に、新たに八百を女中として雇っている。

八百が「節子夫人ご結婚後間もない」と、あっさり「夫人」と呼びならわしていることだ。桑原本は、証言者たちの曖昧な言葉や記憶違いなども、検証せずにそのまま収録しているため、信頼性には欠ける。それでももしセツが単なる女中の立場に留まっていたなら、わざわざ「セツとは別に」女中を増員する必然は薄い。家事労働を分担させるための奥向きと手伝いの線引き、すなわちセツを妻側とみなす家内の秩序が、出会いからほどなく立ち上がっていたと考えるほうが自然だ。