かつて男も女も刹那的に生きた時代があった。戦前までの女性20人の生きざまを本にまとめた平山亜佐子さんは「歌人の松乃門三艸子は芸者でもあり、幕末の大物と渡り合い、現代から見ればまるで異世界のような豪快すぎる逸話を残した」という――。

※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。

三艸子近影。木村毅『大東京五百年(2)花ひらく明治』毎日新聞社より
三艸子近影。木村毅『大東京五百年(2)花ひらく明治』毎日新聞社より

恋愛経験豊富で「千人斬り」だと言われた女性

「千人斬り」とは、もともと願掛けや腕試しに千人を刀で斬ることを指したが、転じて俗に千人の異性と関係することをいう。

幕末生まれの歌人、松乃門まつのと(または松野門、松の門)三艸子みさこ(または三草子)が後者の意味での「千人斬り」を行なったと知ったとき、なぜ歌人が千人斬りを? とまずは不思議に思った。調べてみると芸者でもあって、しかも勝手に芸者を名乗って個人営業をしていたというではないか。一体、そんなことができるのか? というわけで、謎多き松乃門三艸子を深堀りしてみた。

なお、女性の「千人斬り」は「千人悲願」または「千人信心」と言うとの説もあるが、なんだか湿っぽくてピンとこないので「千人斬り」とする。

本名は小川みさ。1832(天保3)年3月3日、下谷数寄屋町(現台東区上野2丁目)で貸金業を営む裕福な家に生まれる。名前は三が三つ並ぶ生年月日に由来するという。

13歳で富豪と結婚、15歳で離縁、未婚の母に

幼少の頃から容姿がよく「天稟てんぴんの美貌月のごとく輝き、小町娘こまちむすめほまれ町々に聞こえぬ」とは、死後に編まれた『松の門三艸子歌集』の一文。そのせいか、望まれてわずか13歳で幕府御船御用達を営む深川の富豪の辻川長之助に嫁したが、夫の妾に子ができたことに怒って離縁し、1846(弘化3)年、15歳にして実家に戻る。当時、夫が妾を持つことは常識の範囲内ではあったが、みさはがまんしなかった。

その後、丸の内にあった鳥取藩池田家の奥女中として勤めるが妊娠により1年で辞す。子どもの父親は観世流能楽家の山階滝五郎だった。

二人の出会いについて、小川家が山階家のパトロンだった可能性も言われるが、実際のところは不明。1849(嘉永2)年2月、みさは未婚のまま徳次郎を出産。滝五郎の妻に子供がなかったために山階家に引き取られた。その後、徳次郎は能楽家として大成する。

みさの息子、徳次郎。親子の交流は続いていた。「山階徳次郎氏の鉢木」『能楽画報』3(2)より
みさの息子、徳次郎。親子の交流は続いていた。「山階徳次郎氏の鉢木」『能楽画報』3(2)より

この頃、みさは江戸派最後の歌人と称される井上文雄(号は柯堂)の歌塾に入る。文雄は1800(寛政12)年生まれの医師で国学者で歌人、洒脱で容姿端麗、後に門下の草野御牧と「諷歌新聞」を発行して幕府を批判したとがで明治初の発禁を受けるなど、侠気きょうきな一面もあった。モテる要素しかない。

みさは同い年のもう一人の美貌の弟子、大野定子とで「柯堂門の桜桃」と評され、歌人としても頭角を現した。