現在のTOKYO FMは1960年に東海大学が開局した日本初の民間FM放送局で、当時はFM東海という名称だった。そこに転職してラジオ時代の黄金期をけん引し、のちに「ミスターFM」と呼ばれる後藤亘さん(現名誉相談役)の評伝から駆け出しの新人時代の痛快なエピソードをお届けしよう――。

※本稿は、延江浩『反骨魂』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。

エフエム東京本社
エフエム東京本社
エフエム東京本社(画像=Miyuki Meinaka/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

「は? SM?」

1960(昭和35年)、松前重義(東海大学総長・衆議院議員)に誘われ、27歳で勇んでFM東海に転職した後藤亘だったが、いざ働き始めると、FMラジオへの認知度の低さをあらためて思い知らされることになる。

受信機の製造が始まり、「FM喫茶」「FM理髪店」が新聞各紙で報道され、以前より認知度が高まったとはいえ、それでも「FM」という言葉も、どんな音質なのかも、まだまだ一般には知られていなかった。

当時、FM東海の送信所は渋谷区富ヶ谷の東海大学代々木校舎にあった。

「代々木なんて、あんな田舎じゃバカにされます。せめて丸の内じゃないと」

そう啖呵を切ると、後藤は丸の内にあった「松前重義事務所」の横に「FM東海実験局」と勝手に看板を掲げ、意気揚々と営業に向かう。だが、100社近くまわっても1社しか話を聞いてもらえない時期もあった。

「だって、誰も放送局だとすらわかってくれないんだから。ある大手メーカーに行ったときに受付の女性から『は? SM?』なんて怪訝な顔をされたときはさすがにしょげたよ」

と後藤は苦笑する。

「それはもう山ほど苦しい、悔しい思いをしたね。でも、その苦労が必ず実るって思ってた」

後藤の母親は福島県二本松の出身。後藤にも二本松少年隊の血が流れ、反骨そのものである。しょげることもあったが、それはほんの一瞬だった。

「根がのん気なんだな。これからの時代を新しい科学技術で作るんだって気概だけはあってね。まだ20代だったからそんな苦労も逆に面白かった」

FM東海を商業放送として成り立たせるためには何が必要なのか、いつもそのことばかり考えていた。後藤は自分なりに考え抜いた末に、松前にこんな大胆な提案をする。

「教育番組はゴールデンタイムの2時間を死守します。その代わり、それ以外の時間にはエンタテインメントをやらせてください。そうしないと受信機も売れないし、スポンサーだってつきません。教育番組は文部省のチェックが入っても大丈夫なようにきちっとやりますから」

福島弁のなまりもかまわず熱く語る後藤に、松前は苦笑しながら、

「お前の好きにやれ」

そうひと言だけ返した。