「松江の英語教師」になるまで、不安な日々

服部は長州の出身で、明治の初めにアメリカに留学。帰国後は官僚として順調に出世し、明治17年にニューオーリンズで開催された万国工業兼綿百年期博覧会に参列している。このとき、ハーパーズ・マガジンの依頼で会場を取材した八雲は偶然にも服部と会っていた(貝嶋崇「小泉八雲の教育」『比治山大学・比治山大学短期大学部教職課程研究』第9巻)。

この二人が八雲に好意をもって仕事を探してくれて松江に英語教師の職が見つかったのは、5月下旬頃のことであった。ところが、それが見つかるより早く5月上旬にはハーパー社に絶縁状を送りつけている。

いよいよ職も見つかるという自信があったのだろうか。

しかし、それを送りつけながらも、また不安になった八雲はビスランドに、なにか職はないかと手紙を書いている。手紙の中で八雲は「どこかアメリカに定給で私を雇う職場を探してください」といい、次のように記す。

ある就職口を見つけましたが、その職場は9月まで待たなければなりません。それまで、どうにか生活できるでしょうか。私は生きるために人から馬鹿にされ、無視されることはもうこりこりごりです。

“米海軍の軍人”がいなければ、八雲の人生は詰んでいた

当時の学制では新学期は9月からの始まりである。今、仕事を見つけてもらっても、数カ月は無収入のままである。それではとても耐えられないという切羽詰まった中で八雲は生きていたのである。

ラフカディオ・ハーン
ラフカディオ・ハーン(写真=trussel.com/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

しかも、そこまで切羽詰まっているのは自業自得の側面もあった。ハーパーズ・マガジンと絶縁するにあたって八雲は、すべての契約書を返送し、原稿料も受け取りを拒否したのである(速川和男『小泉八雲の世界』笠間書院1978年)。

元来、自尊心が高く不器用だった八雲だが、やっていることが無茶苦茶である。これを助けたのが、前述のマクドナルドであった。これを知ったマクドナルドは、アメリカ領事を通して、それらのお金を受け取り、まずグランドホテルの株を買い、徐々に説得して八雲に受け取らせたのであった。さらに、マクドナルドは八雲に500円を貸している。後、八雲はこの時に借りた500円を返済しようとしたが、マクドナルドは決して受けとろうとしなかったという(小泉一雄『父小泉八雲』小山書店1950年)。

実に、マクドナルドがいなければ松江にたどり着く以前に八雲の人生は詰んでいたといえるだろう。『知られざる日本の面影』では、松江までの日々も美しく描かれているが、実は一寸先は闇のような状況が長らく続いていたのである。