貧乏旅行と同レベル、お先は真っ暗だった

現代の感覚なら、そんなに費用がかかるなら日本人向けの店で食事したりして節約できるのでは? と考えるだろうが、当時はそうはいかない。当時の日本の衛生状態ではコレラや赤痢の感染リスクも高く、言葉も通じない中で未知の料理に挑戦するのは危険度が高すぎた。

当時の日本奥地を旅したイザベラ・バードはよく知られているが、バードは既に有名な旅行作家かつ資産家で、有能な通訳を雇い、十分な資金を持っての冒険だった。対して八雲は、無謀な貧乏旅行者の類いである。ゆえに安全を確保しようとすれば、ニューヨークなら数十セントの食事に何ドルも払わなければならなかったのだ。

八雲の記した『知られざる日本の面影』の一説「極東第一日」には、こう記されている。

なにもかもが、言いようもなく、愉快で、目新しくて、たまらない。だから、どこへでもいい(『小泉八雲全集』第1巻 みすず書房 1955年)。

横浜の外国人居留地から人力車で出かけた八雲は、こんな晴れ晴れとした気持ちを書いている。初めての日本は見るも聞くもみな新鮮だった。それには感動しても、この先どうするかはまったくお先真っ暗だったのである。

在日外国人の中で顔の広い“米海軍の軍人”を頼った

そんな八雲の手にあったのが、渡航前にエリザベス・ビスランド(編集部注:アメリカのジャーナリストで、八雲と親交があった11歳年下の後輩)がくれた紹介状で、横浜のグランドホテルに滞在していたミッチェル・マクドナルドを訪ねた。マクドナルドは米海軍の軍人で、日本に滞在している外国人の中でも顔が広かった。マクドナルドは、さっそく帝国大学で教鞭を執っていたバジル・ホール・チェンバレンに紹介状を書いてくれた。

ラフカディオ・ハーンとミッチェル・マクドナルド
ラフカディオ・ハーンとミッチェル・マクドナルド(写真=『The Life and Letters of Lafcadio Hearn』/PD US/Wikimedia Commons)

さっそくこれを添えて手紙を送ったところ、すぐに返事は来た。幸運にもチェンバレンは、八雲が出版していた『中国怪談集』などを読んでおり、文部省に職のアテを探してみると申し出てくれたのである。

八雲が横浜に到着したのが4月4日、チェンバレンが八雲からの手紙に返事を書いたのが、4月6日だから、かなり切羽詰まっていたことがわかる。

帝国大学で教鞭を執っているチェンバレンが動くのだから、なにがしか職は見つかることは間違いなかったが、八雲は不安でたまらなかった。この後、4月6日には、小部屋と食物さえ手に入れば、ハーパー社から原稿料を取る自信があるといい、9日には、英語教師の職はないかと訪ね、11日には具体的に九州の学校の話などに触れている。

八雲は不安でいっぱいだが、チェンバレンの動きも早かった。彼はすぐに文部省の普通学務局長だった服部一三に連絡を取っている。これは、八雲にとって更なる幸運であった。