仙台で思い定めた「鉄道は天職」
社会人になっても、どんな道を歩みたいのか定まっていない人が、少なくない。それでもいい。人生で、これから生きる時間のほうがずっと長いのだから。いずれ、誰にも転機はやってくる。自分の場合、それは満40歳を迎えるころに、訪れた。
1979年3月、国鉄(現・JR各社)仙台鉄道管理局の総務部長となる。管内に約1万6000人を抱える組織のナンバーツーだ。赴任すると、労働組合の勢力が強く、職場の規律が驚くほど乱れていた。
郡山駅の貨物ターミナルでは、勝手に仕事から離れる組合員がいた。導入した自動設備の設計に初期的なミスがあって、作業がうまくいかない。そのために負荷が体にかかり、腰痛になった、と言う。労組に近い医師に診断書を書いてもらい、勤務時間中にそれをみせて、姿を消す。
規則では「勝手に職場放棄をした者は、賃金をカットする。それが何回も繰り返されれば、処分する」となっていた。助役に、きちんと働くように促せと伝え、従わなければ規則通りに処分するように指示する。すると、助役が訴えた。「はしごを外さないと約束してくれれば、業務命令を出します。無断で職場放棄しようとしたら『いくな、いったら、賃金カットをするぞ』と言います。でも、後ではしごを外し、処分を無効にされたのでは、私の権威にかかわるから、命令は出せません」
はしごを外すなどあり得ない、と即答すると、「いや、私は昨年、やられました」と言う。聞くと、前任の総務部長にも同様に言われ、業務命令を出し、賃金カットもした。だが、ひと月後、その組合員が封筒をかざして「この中に何が入っているかわかるか? お前が賃金カットをした額と同じ額を、管理局の総務部長が(労組地方本部の)委員長に渡し、委員長が私に返してくれたぞ」と声を張り上げた。とんでもない話で、そんなことは絶対にやらないと約束し、業務命令を出させる。