日本人は判断を第三者に委ねがち
上司や同僚よりも「生成AI」を頼る若手社員が問題になっています。生成AIは時に支離滅裂な答えを返しますが、それすら鵜呑みのままコピペして、会社の資料や報告書を作ってしまう。書類をチェックする上司は頭を抱えているそうです。
そう聞くと昨今の「AI依存」もここまで来たかと驚きますが、一方ではいかにも「昔ながらの日本人」の行動にも見えてくる。意思決定を「第三者」に委ねることで中立性を装い、こっそり自分の責任を肩代わりさせるのは、この国の悪い習慣でもあります。
名前に「第三者」と付いた途端、信頼度が急騰する現象は、最近ではタレントの不祥事をめぐってフジテレビが立ち上げた「第三者委員会」でもおなじみです。少し前の新型コロナウイルス禍の当初も、政府はいわゆる「専門家会議」を設置して対策を諮問しましたが、この会議も(常設の省庁と異なる)第三者的な性格がありました。
第三者と聞くと、当事者ではない分「公平中立で客観的に検証してくれる」という響きがある。もちろんそうした一面はあります。しかしそれと表裏一体のリスクが、忘れられてはいないでしょうか。
「第三者」幻想がもたらすリスク
「問題の当事者でなかった」ことは、その人が完全に中立公平で「出す結論が正しい」ことを意味しません。第三者にせよ、彼ら自身のバイアスから自由ではないからです。依頼主がテレビ局であれば、その局の組織風土よりも「問題を起こした個人」に責任を帰しがちかもしれない。感染予防を最優先する専門家は、「罹っても治ればいい」という観点には立ちにくいかもしれない。
にもかかわらず、批判意識を持たずに彼らの主張を絶対視し、「この人たちはプロだ。素人は黙れ!」と異論を叩いて回るSNSでの取り巻きが、令和には増えました。
また第三者的な存在は、しばしば「相互の責任転嫁」の舞台になります。コロナ禍では不人気な対策について、政府は「専門家がこうしろと言ったから」と説明する。しかし専門家会議も「私たちはあくまで助言者。決めたのは政府です」としか答えない。互いに相手のせいにして、誰も責任を負わない状態が出現しました。
こうした現象には歴史上、先例が多い。有名なのは戦時中の陸海軍です。

