織田信長が建てた安土城とはどんな城だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「それ以前の城とは決定的に役割が違う城だった。豪華絢爛な装飾だけでなく、斬新な構造からは、ヨーロッパも意識したことがうかがえる」という――。
近江国蒲生郡安土城
近江国蒲生郡安土城(写真=大阪城天守閣所蔵/岩崎鴎雨/PD-Japan/Wikimedia Commons

「石垣上に高層の天守」はここからはじまった

城といえば、高い石垣上にそびえる高層の天守を思い描く人が多いと思う。だが、全国に3万以上あったという城の大半は、空堀を掘った土で土塁を築いた軍事施設であり、立派な建物とも無縁だった。そんな日本の城のあり方にコペルニクス的転回をもたらしたのが、織田信長が築いた安土城だった。

石垣を城全体にめぐらせ、山上には高層建築「天主」がそびえ立った(安土城と岐阜城のものは「天守」でなく「天主」と表記する)。多くの建物に瓦が葺かれた城も、それまでの常識からすると異例で、一部の瓦には金箔が貼られた。石垣もそれまでのように土留めではなく、その上に建造物が建った。毎日、何万という人を動員しながら3年も費やして築かれたこと自体、エポックメイキングだった。

信長は自身の天下統一のシンボルとして、戦闘目的の城とは発想が異なる「見せるための城」を出現させた。「石垣上にそびえる高層の天守」はここからはじまった。だが、完成からわずか3年後の天正10年(1582)6月2日、信長が本能寺で明智光秀に討たれると、中枢部分は同月14日から15日にかけて炎上し、灰燼に帰してしまった。

安土城天主はどんな姿をしていたのか。信長とたびたび面会し、安土城にも招かれたイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』から引用する。