幕府が開かれたとき「半蔵門」エリアを拝領

そして、半蔵正成は16歳の時、「伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。これを賞されて御持槍(長七寸八分両鎬)を拝賜す」(『寛政重修諸家譜』)。という。この戦は永禄5(1562)年の三河西郡さいごおり上郷城攻めの話で、実際は21歳のことらしい。家康側の武将・松井忠次は早くから伊賀者・甲賀者を召し抱えていたという証言があり、忠次がその人脈を駆使して忍びの者を使ったという(ちなみに、松井忠次は一般に松平康親やすちかと呼ばれ、老中・松平康福やすよし(「べらぼう」の相島一之)の先祖にあたる)。

永嶌孟斎・画「徳川家十六善神肖像図」 国立国会図書館デジタルコレクション
永嶌孟斎・画「徳川家十六善神肖像図」 国立国会図書館デジタルコレクション(参照:2025年9月2日)

半蔵正成もその一人に過ぎなかったのかもしれない。ただし、家康から槍を拝領するくらい、その時の働きが抜群だったのだろう。その後の軍歴は伊賀者ではなく、一般の三河武士と変わらない。たとえていうなら、社長(家康)に認められ、専門職(忍び)から総合職(一般の三河武士)に転職したのではないか。

そして、半蔵正成は元亀3(1572)年に伊賀者150人、天正18(1590)年の関東入国の頃、与力30騎、伊賀同心200人を預けられ、8千石を領した。また、江戸城西側の城門近く――俗にいう「半蔵門」――に屋敷を与えられた。

現在の皇居(江戸城跡)半蔵門
写真=photolibraly
現在の皇居(江戸城跡)半蔵門

半蔵正成が死ぬと、伊賀者は空中分解し改易

ここで勘違いしやすいのは、服部半蔵が並外れた能力を持った忍びだったから、伊賀者を束ねていたという認識だ。たとえばである。日本の企業が国際部門を立ち上げた場合、その部長に外国人を据えたりするだろうか。国際感覚の豊富な日本人を部長にする方が圧倒的に多いだろう。

その部長の役割は、経営層や他部門の考えを咀嚼そしゃくして部下に指示することであって、部下の外国人の考えを集約して経営層に伝えることではないからだ。そう考えるに至ったのは、半蔵正成の死後、伊賀者の間に不満が鬱積して御家騒動が勃発。服部家が改易されてしまったからだ。

慶長元(1596)年に半蔵正成が死去すると、長男・服部石見守正就まさなり(1576?~1615)に5千石、次男・服部伊豆守正重に3千石が与えられた。

しかし、正就は慶長9(1604)年に不行状により改易されてしまう。幕藩体制に移行するにあたって、家康に仕えていた伊賀者は、服部家臣団に組み込まれていった。これに対して伊賀者は家康の臣下の礼を取ったが、服部家の家臣になった覚えはないと不満を漏らして反抗。正就はその動きを抑えられなかったのだ。