還暦を迎えられなかった可能性
しかし、取り次ぎの「女房」自体は、『小右記』には道長が死去した万寿4年(1027)まで登場しているため、このころまで紫式部が宮廷に出仕していたと主張する向きも少なくない。
実際、紫式部の没年に関しては、長和3年(1014)説にはじまって、長和5年(1016)説、寛仁元年(1017)説、寛仁3年(1019)説、寛仁3年以降という説、万寿2年(1026)以降という説、長元4年(1031)説……と、じつに多くの説がある。
だから、「光る君へ」で描かれるように、道長よりも長生きした可能性も低いとはいいきれないが、まったくわからないというのが、真相に近いのではないだろうか。
また、生年も確定できないのだが、「光る君へ」の時代考証を務めた倉本一宏氏は、「紫式部が天延元年(九七三)に生まれたと仮定すると、寛仁元年には四十五歳、万寿二年には五十三歳、長元四年には五十九歳となる」と記している(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。還暦を迎えなかった可能性が高い、ということはいえるかもしれない。
女版「光源氏」になった賢子
ところで、「光る君へ」の第47回では、まひろと娘の賢子(南沙良)との母娘の対話が描かれた。『源氏物語』を読んだ賢子は、母の文才を敬うと伝えたうえで、「政の頂きに立っても、好きな人を手に入れても、よいときはつかの間。幸せとは幻なのだと、母上の物語を読んで知りました」と伝え、「どうせそうなら、好き勝手に生きてやろうと。だから『光る女君』と申したのです」と決意を語った。
この時点で紫式部が生きていたかどうかは、前述のとおりわからないものの、賢子がドラマで語った決意は、史実につながっていく。というのも、これ以降の賢子は「光る女君」という呼び名がダデではないほど、宮廷の貴公子たちと次々と浮名を流している。
その相手は、道長が次ぎ妻の明子に産ませた次男の藤原頼宗にはじまって、藤原公任の息子の定頼。道長の正妻倫子の兄の子である源朝任……。『栄花物語』によれば、道長の次兄道兼の次男であった兼隆と結婚し、その娘を産んだとされている(「左衛門督と呼ばれるその相手は、別の人物だとする説もあるが」。
そして、「どうせそうなら、好き勝手に生きて」やった結果、母を超える高い地位を獲得している。