そもそも1回限りの単発番組だった
募金はこの時点でおよそ3億8500万円。予想をはるかに超えていた(最終的には11億9000万円余り)。萩本と大竹は観客席に入り、時間の許す限り募金を受け取りながら握手をして回る。あまりの混雑ぶりに迷子も出て、萩本がそんな子どもたちを急きょステージに上げて親を探すためインタビューする場面も。会場は、熱気の渦に包まれた。
そこに現れたのが、日本テレビ社長(当時)の小林与三次。小林は2人の労をねぎらうと、「皆さんの声がある限り、何度でもやります!」と興奮気味に宣言した。
実はこの『24時間テレビ』は、この年限りの予定だった。それだけ時間も労力もかかる超大型番組である。だが小林は群衆の盛り上がりを目の当たりにして、継続することを思わず生放送で宣言してしまったのだった。
こうして『24時間テレビ』は毎年恒例となる。貢献度ナンバーワンの萩本欽一も、翌1979年、さらに1980年と総合司会を続けた。
車椅子の少年に言ったひと言
「萩本欽一=いい人」というイメージが決定的に定着したのは、このときからだろう。
だが人並みにギャンブルもやるし、いろいろと遊んでもいた萩本にとって、そのイメージは後ろめたさを伴うものだった。なかには「なんでそんないい人になりたがるんですか?」などと聞いてくる人間もいる。それでも引き受けた以上、イメージを守るために女性のいる飲み屋に行くことをきっぱりやめた(同書、187頁)。
そのあたりは、一度決めたらいつも徹底しているのが萩本欽一というひとである。だが『24時間テレビ』の仕事をしたことで、思いがけない良い出会いもあった。
毎年、友だちを連れて車椅子で会場にやって来る少年がいた。番組には、普段会えない有名人や芸能人が大勢参加している。興奮した少年たちは、サインをもらおうと車椅子で動き回っていた。
会場にはテレビ用の機材が所狭しと置かれ、床には配線用のコードなどが張り巡らされている。車椅子だと危険なことこの上ない。テレビ局のスタッフも、普段なら「ばかやろー」などと怒鳴ってやめさせるところだが、相手が車椅子の少年なので遠慮している。そうしているうちに、翌年、翌々年と少年たちの人数も増え、ますます傍若無人になった。
これはさすがに危ないと思った萩本は、「お前らいい加減にしろ! みんなが君たちを大事にしてくれると思っていい気になるんじゃない! 事故が起きたら君たちも大変だし、テレビ・スタッフにも迷惑がかかるんだ!」と怒鳴りつけた(同書、188~189頁)。