「不適切すぎた」昭和 その裏にある価値を探る

一口に「昭和」といっても長い。その期間は60年をゆうに超えるが、日本は戦争によりいろいろなことがリセットされた経緯があるため、ここでの「昭和」は、戦後の高度経済成長期以降を指すことにする。

思えば、昭和というのは今では考えられない言動が許容された時代だった。世の中は男性中心の価値観がスタンダードであり、職場ではハラスメントが横行していた。

オフィスや飲食店、病院でさえも公然とタバコが吸われていた。学校では当たり前のように教師が生徒を殴った。日常的に飲酒運転をする人も多かった。社会的な弱者への理解は低すぎた。個人情報は垂れ流しだった。

こうした面だけ強調すると、当時を知らない世代の人たちは、「なんてひどい時代なんだ」と思うに違いない。「昭和、不適切すぎるでしょ」と。

だからこそ、やがて社会全体の意識に大きな変化が生じ、昭和的な価値観の多くは否定されるようになる。今もそれを押し通している人は「老害」なるフォルダにセグメントされる。

一方で、そのカウンターを気取り、「今は何にもいえない」「窮屈な時代」といった発言で、一部に賛同を得ている人もいる。だが、その人が窮屈でなかった時代に、苦しんでいた人がいる事実もある「セクハラって言われちゃうかな」という前置きを免罪符に、セクハラしている人もいる。やはり、昭和のまんまではいられない。

──こうした大前提を踏まえたうえで、それでもなお、昭和的な言動、発言、事象、システムを振り返ってみると、再評価し、価値を見出せる面もあるのではないだろうか。

白か黒か、○か×か、アリかナシか。今はなんでもかんでも二極化されがちだ。だが、多くの物事には両面がある。捉え方や光の当て方の違いで、見え方は変わってくるものだ。

白と黒の間にグレーがある。○でも×でもない△がある。無条件でアリではないが、場合によってはナシでもないケースもある。現在失われた昭和的な言動であっても、100%NGとはいえないケースもあるのではないか?

大事なのは、規制を設けることではない。社会全体がよくなること、一人ひとりの人生が豊かになることだ。不適切すぎた昭和を振り返りつつ、そうしたことをじっくり考えてみよう。

昭和の街並み
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