インドのスラム、福島第一原発…「死」の隣で去来したこと
齊藤さんの人生は、波乱万丈だ。「幼いころから寺での生活には、抵抗はなかった」と語るが、僧侶としての道を確立するまでの彼の歩みは、決して平坦ではなかった。
最初の転機は、日蓮宗僧侶になるための第一歩を踏み出す道場「僧道林」に入る直前に、幼馴染の親友が自死したこと。僧侶として友を救えなかった無力さを恥じ、本格的に修行道場に入るのをやめた。人生の目的も失いかけ、精神的にも荒んだ日々を送っていたという。
「そんな私を見かねた父が、『インドにでも行ってこい』と言ってきたんです。そこで1年ほどインドを放浪することに。スラムを回り、ストリートチルドレンらと交流し、貧困の中でも逞しく生きる人々を目の当たりにしました。このインドでの強烈な経験が私の目を覚まさせました。それでお寺を継ぐというレールからいったん外れ、真逆のことがしたくなったんです。私が選んだのは、自衛隊に入隊することでした」
齊藤さんは陸上自衛隊の千葉・木更津駐屯地に配属。第1ヘリコプター団の通信手の任に就いていた2011年3月11日、東日本大震災が起きた。翌12日には福島に派遣される。現場は福島第一原子力発電所だった。全電源喪失とメルトダウン、そして原子炉建屋が爆発。現場は修羅場と化したが、「私は偉い上官の側で補佐をするだけの役割でした。自衛官として現場で汗を流すこともなく、何もできなかったことが、悔しかった」と振り返る。
齊藤さんは2014年に退官するが、現在も予備役として所属を続けている。
「自衛隊を辞めた直後は、漠然とした不安感がありました。このまま礼文島に帰ったら、誰にも僕という存在が知られないまま消えていくんだ、と。自分が生きているってことを、誰かに知られてなければ、生きていることにはならない。このままだったら死んだも同然だ、と考え、本格的に山登りを始めました」
山登りのきっかけをくれたのは木更津駐屯地にいた時、隣部屋の先輩自衛官だった。誘われるがままに八ヶ岳を登り切り、山の世界にあっという間に引き込まれた。八ヶ岳登山の翌週には難易度の高い甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根ルートに挑んだ。
さらに谷川岳、赤岳、穂高岳、剱岳など、国内の3000メートル級の山々で鍛錬を続けた。齊藤さんはNHKの紀行番組『にっぽん百名山』などでカメラ機材の荷上げなどにも関わりながら、山の仕事にどっぷりと浸かっていった。