あくまで「中継ぎ」だった女性天皇

なお明正天皇は、後水尾上皇に皇子が生まれるまでの中継ぎとされ、即位から4年後、父の後水尾が水公卿・園基任の娘光子との間に紹仁親王をもうけると、寛永20年(1643)に紹仁に譲位した(後光明天皇)。

明正天皇は7歳で即位し、21歳で退位したので、朝廷で政治力を持つことはできず、上皇として院政をしいていた後水尾が権力を握っていた。ちなみに退位後、明正上皇は独身のまま74歳まで生きた。

明正天皇とは異なり、後桜町天皇は余儀なく即位せざるを得なくなった女性皇族である。

後桜町天皇像(写真=三英舎/PD-Japan/Wikimedia Commons
河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社文庫)

四代にわたって20代~30代半ばで崩御する天皇が続き、異母弟の桃園天皇も在位中にわずか22歳で死んでしまった。桃園天皇の長男の英仁親王はまだ5歳だった。

せめて10歳にならないと、天皇の役目は務まらないと判断した関白の近衛内前は、幕府と相談したうえで、桃園天皇の姉にあたる23歳の緋宮を即位させたのである。

約120年ぶりの女帝である。ただ、9年後に英仁親王が成長すると譲位している(後桃園天皇)。このように江戸時代の女帝は、あくまで中継ぎだったことがわかるだろう。

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