女性・女系天皇の是非をめぐる今日の議論において、無視できない史実とは何か。宗教学者の島田裕巳さんは「寵愛する道鏡を皇位につかせようとした孝謙・称徳天皇の意図を探ることで、皇位継承の本質を問い直すことができる」という――。

史実上無視できない女性の天皇

愛子内親王の初の単独公務が行われた。佐賀での国民スポーツ大会を観覧し、その地方の視察を行うためである。9月には、地震で被害を受けた能登を訪問する予定になっていたが、大雨により、それは取り止めになっていた。

皇后両陛下の長女愛子さま
写真提供=共同通信社
佐賀県を訪問され、集まった人たちに手を振る天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=2024年10月11日午前、佐賀市(代表撮影)

愛子内親王が天皇に即位することを待望する小林よしのり『愛子天皇論2 ゴーマニズム宣言SPECIAL』(扶桑社)も同時期に刊行され、愛子内親王にふたたび注目が集まっている。小林氏の主張は、女性天皇や女系天皇を認めない男系固執派には、男尊女卑の思想が強くあるというものである。

女性・女系天皇の是非をめぐる議論を展開する上で、無視できない女性の天皇がいる。それが孝謙・称徳天皇である。

孝謙・称徳と二つの天皇名があるのは、この天皇が「重祚ちょうそ」しているからである。一度譲位し、ふたたび天皇の位についたのだ。重祚した例は、歴史上はほかに皇極・斉明天皇しかいない。皇極・斉明天皇も女帝である。

重祚したところにも、孝謙・称徳天皇の重要性が示されている。『愛子天皇論2』の巻末におさめられた「天皇系図」では、孝謙・称徳天皇が「女性初の“皇太子”になった」と注記されている。女性初というと、ほかにも女性の皇太子がいたようにも思えるが、孝謙・称徳天皇以外に皇太子になった女性はいない。唯一の女性皇太子だったのである。

天皇と道鏡の同衾説

皇太子に就任したのは、そのときの天皇が認めたということである。孝謙・称徳天皇を皇太子にしたのは父親である聖武天皇だった。聖武天皇は、自らの娘に皇位を継ぐ資格があると考えたからこそ、それを選択したのである。

ところが、孝謙・称徳天皇に対するその後の評価は決して芳しいものではない。その最大の要因は、彼女が僧侶である道鏡を寵愛し、それゆえに道鏡を天皇の位につかせようとしたところにある。

寵愛ということばには、とくに深く愛し、優遇するという意味があるが、目上が目下に対して特別の愛情を注ぐというニュアンスがある。したがって、天皇に関連して、「帝のご寵愛」という表現がある。

また、「寵愛昂じて尼にする」という用例があり、こちらは、寵愛の対象は娘になる。したがって、孝謙・称徳天皇が道鏡を寵愛したとしても、必ずしもそこに性の関係があったとは限られない。だが、後世において天皇と道鏡は同衾どうきんしたという説が広くとなえられてきた。

さらに、道鏡には巨根伝説がある。それに対応する形で、孝謙・称徳天皇には広陰説まである。両者のあいだには淫らな関係があり、だからこそ孝謙・称徳天皇は、皇位継承の伝統を無視して、道鏡を皇位につかせようとしたというのである。