「値上げしたい」とは言えなかった
豆腐は、日配品。工場の稼働を止めるわけにはいかない。
当時、佐嘉平川屋がスーパーにメインで卸していた豆腐は、1丁60円~70円。工場の職人たちが、手作業で作る豆腐は、生産量も限られ安く作ることもできなかった。
売り上げから人件費や原料代などの固定費を引くと利益は、数円程度。「多売」もできず、「薄利」すら得ることが難しい。それでも工場を動かすコストを最低限賄える売り上げを作らなければならない。工場が止まると事業が止まる。
商品の値上げを考えたものの、現実的ではなかった。競合がいるなかで自分のところだけ値上げをすれば、スーパーから取引を切られる恐れがある。値上げができたとしても、10~20円の価格差で客が離れてしまう。そうなれば、これまで築いてきたシェアを奪われ、取り返すのは至難の業となる。
「もうどこにも、逃げ道はなかった」と平川さん。結局、大豆を佐賀県産から外国産に切り替えることにした。この状況下で唯一、融資してくれた信用金庫に助けられ、なんとか廃業を免れた。生き延びながら、生き残る道を探る。
「判断を間違えると会社が倒産するという状況で、決断することへの怖さはありました。この時が一番しんどかったです。でも、原料を外国産に変えても売り上げは落ちなかったことで、『温泉湯豆腐』の商品としての価値を改めて感じることができました」
この経験から平川さんは、販路や原料、商品を多角化し、リスクを分散させることを強く意識するようになった。また、当時の売り上げの大半を占めていたスーパーなどの量販店への卸事業から、自社で主導権を持てるBtoC事業の拡大へと、さらに注力していく。
直売店を立ち上げる
2006年、父を継いで3代目社長に就任した平川さんは、佐嘉平川屋の認知度を広めるために、飲食と物販を兼ね備えた実店舗の出店を計画する。当時の売り上げは3億円台。飲食業の経験もないなかで、1億数千万円の投資に、「絶対うまくいかない」と誰もが反対した。
それでも、諦めきれない理由があった。
話は社長就任の2年前ほどにさかのぼる。「嬉野の温泉湯豆腐」の規格が定められ、佐嘉平川屋の温泉湯豆腐は規格外になってしまった。それでも売り上げは伸び続けた。
社長に就任してからは「嬉野の会社でもないのに温泉湯豆腐を作っていいのか」と、保健所や取引先へ連絡が入るようになった。会社や自宅、最後は近隣の飲食店にまで、脅迫状が届くようになった。
平川さんには、ある思いが込み上げていた。
「嬉野を本場とする温泉湯豆腐を主力商品にしているからこそ、どうしても嬉野に拠点がほしい」
開業資金を得るために金融機関を6軒回った。すべてに融資を断られ、悶々としていた平川さんのもとに2008年秋、ある金融機関の支店長がたまたま新規開拓の営業で訪れた。思いの丈をぶつけると「やりましょう!」と、その場で融資が決定した。
「長い目で見た時に嬉野店を出さない限り、うちの温泉湯豆腐は本物にはならないし、生き残っていけないと思いました。ずっと『ニセモノ』と言われる状態では未来はない。無理してでも店を出さなくちゃいけないって、逆に燃えました」