隋唐帝国のルーツは“異民族”だった
武川鎮は現在でいう内モンゴル自治区フフホト市の郊外で、かつて南北朝時代に北朝の北魏の辺境防衛を担う駐留軍が置かれた土地である。
北魏は、北方民族の鮮卑の拓跋氏の国家で、華北を統一した強国だった。ただ、493年に第6代の孝文帝が中国内地の洛陽に遷都をおこない、遊牧民的な王朝を中華王朝に変える漢化政策を推進したことで、北族的な習慣を残す保守派から反発された。やがて孝文帝の崩御後、辺境にいた軍人たちが六鎮の乱と呼ばれる反乱を起こし、北魏は混乱の末に東西に分裂した。この六鎮の一つが武川鎮である。
北魏の崩壊後、分裂の片割れである西魏の支配階級として台頭したのが、武川鎮にルーツを持つ氏族だった。次代の北周の皇族である宇文氏や、さらに普六茹氏、大野氏といった、明らかに漢民族とは異なる姓を持つ人たちである。この普六茹氏と大野氏がそれぞれ、やがて隋と唐の皇族になる楊氏と李氏の前身だ。
彼らは鮮卑などの「北族」そのものか、仮に漢民族だったとしても長年の通婚や生活習慣の変化のなかで北族化した人々だったとみられている。これが隋唐帝国のルーツなのだ。
儒教的な倫理観とは異なる家族観もみられる
後年、唐の李世民が遊牧世界から「天可汗」として推戴されたのも、唐の皇族が北族的な要素を持っていたことが関係していたのだろう。
当時の西域の諸民族は隋や唐を「タブガチ」(=拓跋)と呼んでおり、鮮卑系の王朝として認識していたようだ。なお、唐の中期までの皇帝は李世民の兄殺しをはじめ、高宗が父の後宮の女性(則天武后)を自分の皇后にしたり、玄宗が息子の妃だった楊貴妃を近づけたりと、漢民族の儒教的な家族倫理とは乖離した行動が多い。これらについても、唐室の北族系のルーツと関係があるのかもしれない。
唐は中国史を代表する王朝だが、あまり漢民族的ではない王朝だった。より正確には、後漢末期から華北に侵入し続けた北族が、長い時間のなかで漢民族と文化的にも血統的にも混ざり合い、その果てに生まれた新王朝が隋や唐だった。隋唐帝国をこのような存在として描く学説は「拓跋国家論」と呼ばれ、日本や欧米の学界では広く受け入れられている。