「名君・李世民」のイメージは盛られている

彼の治世である「貞観じょうがんの治」は、善政が敷かれた時期として有名だ。言行録とされる『貞観政要』も、いまもなお日本を含む各国で帝王学の書として盛んに読まれている。

李世民の肖像画
李世民の肖像画(台北国立故宮博物院所蔵)(画像=國立故宮博物院/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ただし、こうした李世民の姿は、後世に作られた虚像も多い。彼の「名君」設定は、多分に自己演出の賜物だったともみられている。李世民が軍事的な天才だったことは確かである。唐の建国当初、竇建徳とうけんとく王世充おうせいじゅうらの強力な群雄を討滅し、父の李淵に天下を取らせたのはひとえに彼の功績だ。

とはいえ、李世民は本来、李淵の後継者ではなかった。彼が帝位を引き継いだのは、626年に兄と弟を殺害するクーデターを起こし(玄武門の変)、優柔不断な父を半ば押し込めて譲位させた結果である。

皇太子の兄をしいして皇帝の父を排除する行為は、儒教の長幼の序に反する。そのため李世民はかえって、政権を握ってからの自分をことさら「名君」として印象づけたとみられている。

過剰なプロパガンダを通じた「名君」の演出は、その後の中国でも清の乾隆帝や蔣介石、毛沢東などが踏襲し、近年は習近平が盛んにおこなっている。ただし、李世民のために弁護すれば、玄武門の変はその勃発時点では、そこまで問題のある行動とはいえなかった。

皇帝の廃位やクーデターは日常茶飯事

当時の中国は、2世紀の後漢末期の群雄割拠の時代以来、三国時代・五胡十六国時代・南北朝時代と分裂状態が400年以上も続き、皇帝の廃立やクーデターは日常茶飯事だったのだ。とりわけ、華北ではモンゴル高原や西域からの異民族の侵入が活発で、王朝が短期間で交代し続けた。一時代前の隋にしても、中国の天下統一には成功したものの、性質としては従来と同じ弱点を持つ短命王朝だった。

唐代の初期である7世紀初頭は、分裂時代の荒々しい気風がまだ濃厚に残っていた時期だ。李世民のクーデターも、同時代の人が見れば「彼のポジションならばやって当然」という認識だったはずである。むしろ、彼の政権奪取後に中国が久しぶりに秩序を取り戻し、モラルをまともに論じられる落ち着いた社会が生まれたことで、父と兄に弓を引いて帝位につく行為が「悪」になったと考えていい。

中国人にとっての「理想の王朝」である唐には、もう一つ別の顔がある。実は彼らは、必ずしも漢民族の王朝とはいえない存在だったのだ。

後年、18世紀末に清の趙翼ちょうよくという学者が著した歴史評論書『二十二史箚記さっき』のなかに「周隋唐皆出自武川」という有名な王朝評がある。これは、唐とその前の北周・隋王朝の皇族たちは、いずれも武川鎮ぶせんちんと呼ばれる辺境の一地方にルーツを持っているという指摘だ。