死の床で愛娘2人に語ったこと

そのころ道長は、自分の娘の後宮に上級貴族の娘を女房として、次々と送り込んでいた。だが伊周は、自分の娘だけはそうさせたくなかったようだ。『栄花物語』によれば、死の床の伊周は2人の娘を前に、「おまえたちが女房になるようなことがあれば、自分にとっては末代までの恥だから、自分より先に娘たちを死なせてくれと祈るべきだった」と語ったという。

しかし、父の死後まもなくして、次女は彰子の女房になっている。

左京大夫道雅(小倉百人一首)(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

同じく『栄花物語』によれば、19歳だった嫡男の道雅にも、「世間に追従したり、人の家来になったりするくらいなら、山にでも入ってしまえ」と伝えたそうだ。

父の伊周は、それくらいプライドにこだわったのだが、道雅はそんな父に反発したのか、まったく応えなかった。以後、たびたび暴力事件を起こし、それでも25歳だった長和5年(1016)、正三位の非参議に叙せられて公卿の末席に名を連ねたが、その後も、三条天皇の内親王と密通したり、殺人を教唆したりと、荒くれた生活を続けた。

このため「荒三位」「悪三位」などと称され、63歳で没するまで、25歳のときに正三位になったのを最後に、一度も昇進することはなかった。

血筋が途絶えた伊周と明治まで続いた弟・隆家

一方、「光る君へ」でも「とうの昔に兄は見限りました」と語り、道長を支える意思を示した伊周の弟の隆家はどうか。兄の死後、外傷性の眼病を患い、唐人の名医がいるという太宰府への任官を望み、長和3年(1014)11月、太宰権帥に任じられた。

その後、隆家の足下で国難が発生した。刀伊の入寇。すなわち、寛弘3年(1019)3月から4月、女真族と思われる海賊が対馬や壱岐を襲撃後、九州沿岸に押し寄せたのである。隆家は九州中の豪族に召集をかけて応戦し、見事に撃退している。

その年末、隆家が太宰権帥を辞して帰京すると、その功績を評価して「大臣、大納言にも」取り立てようという声が上がったという。それは実現しなかったが、長暦元年(1037)から再度、太宰権帥を務め、長久5年(1044)正月、66歳で死去した。

伊周の嫡男の道雅は、荒くれて子孫も残さなかったのに対し、隆家の家系は大臣こそ出さなかったが、明治維新まで続いた。過去の栄光にしがみつき、そこから抜け出せなかった伊周と、早々に割り切った隆家。それぞれの明暗は、人生の教訓としてもわかりやすい。

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