空前絶後の土木工事

家康が動いたのは、慶長8年(1603)の征夷大将軍就任後だった。翌慶長9年(1604)、西国の29大名に命じて、城の中核となる本丸、二の丸、三の丸、北の丸のほか、溜池から雉子橋までの外郭を築かせた。このとき神田山を切り崩し、いまの新橋近辺から大手町あたりまで入り込んでいた日比谷入江を埋め立て、土地を創出している。

徳川家康像(画像=狩野探幽/大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

また、遅れて東北や関東、信州などの大名も駆り出され、慶長16年(1611)までに、現在は皇居の宮殿が建つ西の丸や吹上が整備された。この第1次天下普請で江戸城の骨格が整った。

家康の存命中に行われたのは、慶長19年(1614)の第2次天下普請までで、そのとき本丸から三の丸にかけての石垣が大規模に修築され、ほぼ今日見るような姿になった。ほかに西の丸を囲む堀が拡張され、現在は皇居外苑となっている西の丸下の石垣が整えられ、半蔵門から外桜田門までの幅100メートルを超える堀も、このとき整備された。

工事はまだまだ終わらなかった。慶長20年(1615)に豊臣氏が滅ぶと、元和6年(1620)に、東国の大名を中心に第3次天下普請がはじまり、大手門が再整備され、内桜田門から田安門までの石垣が整えられた。3代将軍家光の代になっても続き、寛永5年(1628)からの第4次天下普請で、外郭の石垣などが整えられた。そして、寛永13年(1628)からの第5次天下普請で、外郭の堀や門が整備され、江戸城の全体がひとまずの完成をみた。

その間、動員された大名は延べ471家を数え、最多の大名が加わった第5次天下普請では、西国の61大名、東国の54大名が携わった。空前絶後の土木工事だった。

なぜ15年で壊されたのか

こうした工事のなかで、家康が主導したのは第1次天下普請だが、その後の普請で、城にはかなり手が加えられたため、たとえば石垣にせよ、家康時代のものは本丸東面の白鳥壕沿いや本丸東の富士見櫓周辺など、一部にしか残っていない。家康が慶長12年(1607)に築いた5重5階の天守も、2代将軍秀忠の時代にすっかり壊されてしまった。

家康時代の石垣上に建つ富士見櫓。 2012年正月 坂下門内側から撮影(写真=ぱたごん/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

秀忠は第3次天下普請の最中、元和8年(1622)8月から翌年にかけ、本丸を大きく改築した。幕府の職務が拡大したのに対応すべく、本丸を北方に大きく拡大する必要が生じたのである。その際、御殿を拡大するのに天守が邪魔だったので、解体されることになった。

家康が建てた天守は意外と貧弱だったのか? 建ててわずか15年で壊されたと聞けば、そのように思われても当然だが、そうではなかった。その時点でまちがいなく史上最大の天守だった。

慶長12年(1607)には、豊臣秀頼はまだ大坂城に健在で、情勢次第では外様大名たちがふたたび豊臣家を担ぐ可能性を否定しきれなかった。だからこそ家康は、江戸城をだれも攻められない不落の城にすると同時に、工事に加わる大名たちの経済力を削ぎ、さらには圧倒的な規模の天守を建て、大名たちに徳川の力と権威を見せつけようとしたのである。