秀子さんは経理のスキルを身につけ、住み込みで働いた

しかし、もともと健康だった母親が体を壊し、静岡地裁で最初の死刑判決が出てすぐに、巖さんの身を案じつつ亡くなってしまう。そこから長男が中心となり、きょうだい一丸となって支援をしていたが、病気や加齢で徐々に秀子さん中心にシフト。特に秀子さんと巖さんは末っ子とすぐ上の姉でずっと一緒にいたこと、母親の悲しみや無念の最期を間近で秀子さんが看取ったこともあり、母親の思いに報いる意味で受け継いでいく。

確定死刑囚の弟を長年支えるのは並大抵のことではない。お金の問題もある。

そんな中、秀子さんは経理のスキルを身につけ、自身は会社に住み込みで働き、質素に慎ましく暮らして家賃や生活費を最小限に抑えながら、切り詰めたお金を東京に行く旅費や、毎月必ず面会に行くと決めて巖さんへの差し入れのお金(1万円~2万円)にあててきたそうだ。

釈放後の巖さん「私が全知全能の神、唯一絶対の神だ」

さらに、巖さんが釈放された後も平穏な日々が訪れたわけではない。

巖さんは家の中を1日13時間も歩き続けたり、ティッシュを畳む作業を延々繰り返したり、「神」を名乗り、街をパトロールするようになり、階段から転がり落ちてケガをしても、外に出て行ったりする様が映画では映し出される。

映画『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』より ©Rain field Production

「袴田巖はもういない。私が全知全能の神、唯一絶対の神だ」
「死刑制度も監獄も廃止された。袴田事件なんか最初から、ないんだ」

そうつぶやく巖さん。「死刑」の恐怖を長年にわたって背負い続けた重みに衝撃を受ける一方、驚かされるのは、そんな巖さんに何も聞かず、言わず、行動を抑制せず、巖さんの意思を尊重し続ける秀子さんの強さだ。