チェンジアップという強力な武器を獲得
少しずつ、チーム内における存在感が高まっていく。
当初のプランでは3月にアメリカに旅立ち、6月に帰国する予定だったが、すでに村上はフレズノ・ジャイアンツで欠かせない選手となっていた。村上は三振の取れるピッチャーだった。その秘密はアメリカに着いてから覚えたチェンジアップにあった。
「日本びいきだったビル・ワール監督とはいつもピッチング談議をしていました。技術的なことよりも、むしろどのような場面でチェンジアップを投げるのが効果的なのか? どんなバッターに対してこのボールは有効なのか? こうした具体的なアドバイスをたくさんもらったことがとても役立ちました」
例えば、打者有利で打ち気にはやっているカウント1―0、2―0、3―0、2―1、3―1、あるいはフルカウントとなり積極的に打っていこうと考えている3―2のときにチェンジアップを投じると面白いように空振りが奪えた。あるいは、いわゆるスラッガータイプの打者にも打ち気を削ぐようなこのボールは有効だった。
こうした具体的なアドバイスは村上の技術向上の支えとなった。自信を持って投げ込んだチェンジアップが痛打を浴びたときはこんなアドバイスをもらっている。
「スピードボールを《1》だとしたら、君のチェンジアップは《0.5》だ。だから打者はゆっくり構え直して打つことができる。スローボールと言っても、《0.75》ぐらいで投げなければいけないんだ」
20歳の誕生日、チームがセレモニーを企画
若かった村上は貪欲に知識を求め、驚異的なスピードで多くのものを吸収していく。進化は止まらなかった。
「ストライクゾーンは、日本よりもかなり低めを取っていました。自分では“決まった!”と思ったボールでも、“ボール!”と言われることも多かったけど、それもすぐに慣れました。しょっちゅうリリーフで投げていましたから、《習うより慣れよ》で、すぐに感覚をつかむことができましたね」
5月6日、この日は村上の20歳の誕生日だった。下宿先の日本人夫婦からはバースデーケーキが贈られた。さらに、チームもまた意外なプレゼントを用意していた。
「僕の誕生日である5月6日を《ジャパンデー》としてセレモニーを開いてくれることになったんです。日本からフレズノにやってきてまだ1カ月足らずで、そんなことまでしてくれました。いつもスタンドで観戦していたアメリカ人の老夫婦はわざわざ球場までお手製のケーキを持ってきてくれました。アメリカ人の優しさが身に沁みましたね」