禁中並公家諸法度を誤読する教科書

天皇や皇族と学問との縁は深い。

江戸時代に徳川幕府が発した「禁中並公家諸法度」では、天皇の主なつとめとして、「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」と、学問が筆頭にあげられていた。これは、鎌倉時代の順徳天皇があらわした「禁秘抄きんぴしょう」という有職故実ゆうそくこじつについての書物から引用されたものであった。

禁中並公家諸法度のこの部分については、日本史の教科書などでは、天皇を学問に専念させ、政治から遠ざけるためのものであると解説されている。

しかし、これに続く部分では、学問を行わなければ、昔からの道理は理解することができず、政治をよくし、世の中を太平にすることができないと述べられている。

教科書はまったくの誤読の上に解説しており、そのもとは、ジャーナリストで思想家の徳富蘇峰が『近世日本国民史』で述べたことにさかのぼる。徳川幕府はむしろ、天皇が歴史について学び、その上で政治に臨むことを奨励していたのだった。

歴史から生物学への関心の誘導

昭和天皇が生涯にわたって生物学を研究し、とくに変形菌類であるヒドロ虫類の研究で大きな成果をあげたことはよく知られている。その影響なのか、秋篠宮文仁親王はナマズの研究者として知られている。そして、悠仁親王はトンボについて研究している。

いずれも自然科学の研究であり、「禁秘抄」や禁中並公家諸法度が求めた国家の太平に結びつくような学問とは異なっている。

現在の天皇の場合には、学習院大学の史学科で学び、瀬戸内海の海上交通について研究した。だが、オックスフォードでは、対象が国内ではなくなり、テムズ川の水上交通について研究を行った。日本のことを研究すれば、どこかで国家の太平に結びつくかもしれないが、イギリスのテムズ川では、その可能性は低くなる。

ここで注目されることは、昭和天皇が生物学を研究するようになったいきさつである。昭和天皇は、学習院の院長だった乃木希典の発案で東宮御所内に創設された「御学問所」において、13歳から19歳まで、5人のご学友とともに教育をうけた。

その際、もっとも関心を示したのが歴史の授業だった。ところが、「最後の元勲」と言われた西園寺公望が、「歴史を深く学びすぎると特定のイデオロギーにかぶれてしまう」と、それを危険視し、それで生物学に関心がむくようになった、むしろ「むかされた」というのである(〈なぜ、天皇は「生物学」を研究するのか? 「歴史を学びすぎないように」と誘導される⁉ 皇族の教育方針の歴史〉『歴史人』2024年9月17日配信)。

西園寺公望(写真=『近世名士写真 其1』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons