三淵嘉子の後輩である女性弁護士として今、思うこと

弁護士白書によれば、女性法曹の2021年での割合は、裁判官27.2%(男女総数2797人)、検事26.0%(男女総数1967人)、弁護士19.3%(男女総数4万3206人)とのことです。女性の割合は十分ではないものの、着実に増えてきました。

嘉子さんたちが法曹を目指した戦前には、女性には選挙権もなく、裁判官や検事などの公務員にもなれなかったことを思えば、かなりの進歩です。

しかし、この進歩は、何の努力もなく得られたものではありません。草分けの存在でもある、嘉子さん、中田正子さん、久米愛さんの3人の女性法曹と、それに続く女性法曹が、道を切り開いてくれたのです。特に、司法科試験に女性で初めて合格した、三淵・中田・久米の3人は、女性の権利について、さまざまなところで講演するなど、啓発活動を行ってきました。

父親をはじめ周囲の男性も女性が法律家になる道筋を作った

また、そこに続く道を敷いてくれた男性たちも、忘れてはなりません。東京帝国大学法学部の民法の教授・穂積重遠先生をはじめとする男性たちの熱心な努力のおかげで、「明治大学女子部」ができ、女性が法律を学ぶための道が開かれたのです。

嘉子さんにとっては、父・貞雄さんの存在も大きかったと思います。海外勤務もある貞雄さんが嘉子さんに明治大学女子部への進学を勧めたことが、嘉子さんにとっての転機だったことでしよう。

三淵嘉子、1938年ごろ(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

弁護士である私自身、父の勧めで法曹を目指しました。熊本市にいて、中学生だったころのことです。

当時、薬局を経営していた父は、ラジオで、熊本では女性初という弁護士さんが、交通事故相談をしていたのを聞きました。そして、「弁護士はいいぞ」と勧めてきたのです。

それが、私が弁護士を目指したきっかけであり、先輩弁護士や父の影響の大きさを感じます。

嘉子さんは、少女時代こそ裕福な家庭で不自由なく育ちましたが、第二次世界大戦中には幼子を抱えて疎開したり、終戦前後には実弟の戦死、夫の戦病死、実母と実父の病死など、さまざまな苦労もしています。

しかし、どんなことが起きても、弟や幼い子の生活を支えながら、懸命に走り続けました。

このバイタリティは、嘉子さんの生来のものもあったでしょうが、つらかった戦争時代を耐えてくぐり抜けた人が持つ強さの面もあったと思います。

戦後、日本が奇跡的な経済復興を遂げたのも、戦争時代を経験した人たちの頑張りによるものが大きいのではないでしょうか。