ひとり息子の芳武さんは死に目に会え、軍歌で送り出した

まもなく芳武さんが病室に到着し、最後の対面を終えると、医師は人工呼吸を止めました。そして、嘉子さんは静かに息を引き取りました。

先ほどの修羅場がまるでうそのように、静かな死に顔だったといいます。69歳でした。

そのとき芳武さんは突然、嘉子さんの髪をゆっくりとなでながら、低く小さな声で「ここはお国を何百里……」と「戦友」を歌い出しました。

子どものころ、母の背や母に手を引かれての散歩中に、何度も何度も聞いた「戦友」。「母の戦いは終わったんだ」と思ったとき、ほとんど無意識に歌いはじめたといいます。嘉子さんへの芳武さんの尽きない想いをのせたその歌声は、もの悲しく、かすれながら、いつまでも続きました。

葬儀には2000人が集まり、再婚した夫も後を追うように亡くなる

昭和59年6月23日。三淵嘉子さんの葬儀と告別式が、束京・青山葬儀所で行われました。

2000人もの人が参列し、嘉子さんとの別れを惜しみました。

棺の中の嘉子さんは「真っ白なたくさんの花に埋もれていて、すさまじい闘病の苦しみもなく、安らかに、まるで少女のときの面影さえあって涙があふれました」と、一緒に亀の背中に夫の名を書いておまじないをした、平野露子さんは語っています。

嘉子さんの没後、彼女の人生や仕事の功績について、多くの人が嘉子さんとの思い出とともに綴った『追想のひと三淵嘉子』という追悼文集が刊行されました。

ここには親族、学友、仕事仲間、退官後の公務等で嘉子さんに関わり、嘉子さんに惹きつけられた人たちが数多くの原稿を寄せています。

夫・乾太郎さんは嘉子さんが亡くなった翌年、彼女の後を追うように亡くなりました。女性裁判官のトップランナーとして走り続けた嘉子さんの足跡は、これからも色あせることなく残り続けることでしょう。

三淵嘉子、東京家庭裁判所の裁判官室にて、1970年5月
©三淵邸・甘柑荘/アマナイメージズ
三淵嘉子、東京家庭裁判所の裁判官室にて、1970年5月