映画の「まだ見ぬ子がもう一人ほしい」というセリフに号泣

日記には旅行や日常のできごと、若いころの思い出、老いて体調を崩した現夫への心配などのほか、見た映画の感想などが書かれていますが、そこでも嘉子さんは前夫の芳夫に思いを馳せています。

『飛烏へ、そしてまだ見ぬ子へ』と題した映画を見た日の日記です。

悪性腫瘍から肺がんに転移して亡くなってしまう若い医師の手記を映画化したものですが、その主人公が「まだ見ぬ子がもう一人ほしい」と言う主人公の医者の台詞で、嘉子さんは亡き前夫を思い出しています。

「私は前夫の芳夫が出征する前に、同じように『まだ見ぬ子がもう一人欲しい』と言い、私も切望したことを思い出した。芳武のために、兄弟をもう一人と願ったことがあった。
しかし、芳夫はいつも他人の世話をして、親切な人柄からか、もうー人の子を私には恵んでくれなかったのかなと、映画を見ながら考えていた。
(芳夫さんは)私に苦労をかけないようにと心遣いをしているような、運命的な生き方をしたように思う。
やっと日本に上陸しながら、妻子にも会えずに死んでしまったり。もう一人欲しいと願う子も、残さなかったり。いつも人のためを思って生きていた人だ」

この映画を見て嘉子さんは「近年あんなに泣いたことはなかった。声をかみ殺すこともあったくらい。涙で目が腫れてしまった」と日記に記しています。

嘉子さんが若いころに密かに思いを寄せ続け、念願かなって結婚したものの、短い結婚生活を送っただけで命を落としてしまった前夫・芳夫さんと、戦後に長男の芳武さんを従えて必死に仕事をしていた嘉子さんを優しく支え続けた現夫・乾太郎さん。

嘉子さんは、そのどちらにも深い愛情を注ぎ、感謝していました。

©三淵邸・甘柑荘/アマナイメージズ
三淵乾太郎、嘉子夫婦、車中にて、1958年10月25日

昭和58年の初詣で「凶」のおみくじ、がんであることが発覚

昭和58年の正月、柴又帝釈天で嘉子さんは「凶」のおみくじを引きました。人生初めての出来事だったといいます。

嘉子さんは自分では全く気がついていませんでしたが、このころすでに、肺の腺がんを原発として、転移性の骨がんが嘉子さんの体を蝕みはじめていました。

翌月になると、背中や肩が凝って、マッサージをしたり磁気をあてても一向によくなりません。

3月半ばごろから胸骨のあたりに痛みを感じ、無意識に胸に手を当ててかばうようになっていきます。

6月には、激しい痛みに襲われて、国立医療センターに入院。そこでがん細胞が発見され、転移性の骨がんであることが正式に判明します。