「石破をちょっと見てやってくれないか」
角栄先生が倒れられる1年ほど前のことでした。自派の中に何らかの変調を感じておられたのでしょうか。どんな強固な派閥でも、権力を前にすると、新しいリーダーと古いリーダーとの間で諍いが起き、場合によっては分裂する。佐藤(栄作元首相)派から田中派を起ち上げた角栄先生ご本人がそのことを一番よく知っていたはずです。
角栄先生は、その場から渡辺美智雄先生に電話を入れてくださいました。
「俺のところに石破というのがいる。鈴木善幸内閣であなた(蔵相)と一緒に閣僚をやった石破二朗自治相の倅だが、俺のところで預かっているんだ。君のところの鳥取の島田君な。気の毒なことになったが、その後に石破でどうかと思うのでちょっと見てやってくれないか」
これに対して渡辺先生は、
「角さんのところから預かるのは不良品が多いからな」とまぜっかえした上で、「まあ、来てもらわなきゃわからないから」と言ってくださったので、そのままパレ・ロワイヤル永田町の渡辺事務所に行きました。
私は渡辺先生とはそれまで面識が全くありませんでしたが、やはり、会ってみると角栄先生とは違う種類の存在感がありました。「あっけらかんのかー」とか、「毛鉤」発言とか、失言の多い人と言われていましたが、一対一だとものすごく真面目な人でした。
税理士だけあって理詰めでもありました。いろいろ聞かれましたが、最後は「よしわかった」の一言で、角栄先生から私を預かることを了解してくださいました。
こんな経緯を経て、私は次の総選挙で、渡辺派から出ることになりました。もちろん、これはあくまでもまだ中央の話であって、地元ではそうすんなりとはいきませんでした。私は参院議員(石破二朗)の倅だし、地盤も違う、ということで、島田安夫後援会では甲論乙駁、侃々諤々の大議論があり、島田先生のご長男が跡継ぎは自分だと主張される局面もありました。
ようやっと島田先生のあとを私に、と決めていただいたのは1984年8月ごろでした。
「お前が選挙に出れるのは1億8000万円安上がりだからだ」
84年9月、私は鳥取に帰って、父親の命日である16日に鳥取県庁で記者会見を開き、衆院への出馬を正式に表明しました。この直前、角栄先生に今までのお礼とお暇乞いに目白に伺った時、先生がこう言われました。
「お前みたいな、ただの政治好きのあんちゃんが、なんで自民党から立候補できると思う。それはな、お前が出たほうが、まったくの新人が出るより、選挙費用が1億8000万円安くあがるからだ」