塩となって市民の糧になった

崩れた櫓や門は、まもなく炎に包まれ焼失してしまった。しかし、天守と東走櫓は焼けることはなく、石垣の上やその周囲に、残骸の山になった無残な姿をしばらくさらしていたという。だが、昭和21年(1946)11月に撮られた写真では、すべて片づけられてしまっている。木材はどうなったのだろうか。

それらは持ち去られ、主としてバラックを建てるための建材として、あるいは火を燃やすための薪として使われたという。昭和38年(1963)8月2日付の中国新聞には、「広島市教委の資料によると、昭和21年6月、佐伯郡水内村の人に天守の松角材五千本、杉の立ち木三十四本を譲渡」と書かれている。

また、『広島市四百年』には、家具製造業者が、これらの木材の多くの払い下げを受けて製品化したという話や、食糧事情を改善するために、木材が燃料として製塩業者に払い下げられ、国宝が塩になって市民の糧になった、という話も紹介されている。

残骸の山となっていようが、天守を構成していた木材が残っていれば、使用可能なものを組み、そこに新材も加えて、天守を再建することもできたかもしれない。しかし、被爆後の厳しい状況のなかで、天守の残材が、広島の人たちが生きるために使用されてしまったのは、致し方ないことだった。

豊臣秀吉の大坂城を意識した

この天守は、昭和20年6月29日の空襲で焼失した岡山城(岡山県岡山市)と並ぶ、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以前の建築で、すこぶる価値が高いものだった。

毛利輝元は天正16年(1588)夏にはじめて上洛し、豊臣秀吉が築いた聚楽第を見物。続いて、秀吉に大坂城天守にも招かれている。広島城はこの上洛でカルチャーショックを受けたのちに築かれ、天守も秀吉の建築を模倣した可能性が高い。

文禄元年(1592)4月、朝鮮出兵の拠点となった肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に向かう秀吉が、広島城に立ち寄っている。天守はそのときまでに完成していた可能性が高く、そうであれば秀吉もその姿を眺めていた。あるいは、なかに入ったかもしれない。

広島城天守の特徴だが、まず天守台の石垣は、平面がゆがんだ不等辺三角形である。これは石垣築造技術が未熟だった文禄(1592~96)から慶長(1596~1615)初期のころの特徴だ。そこに、石垣の平面に合わせて平面がゆがんだ2階建てを置き、大きな入母屋屋根をかけ、その上に3重3階の望楼が載せられた。望楼部分は別の建築を継ぎ足したかたちなので、下の階のゆがみは踏襲されていない。

壁面は1階から4階まで下見板が張られ、窓は外側に突き上げる板戸が釣られた格子窓で、当初は下見板には黒漆が塗られていたとみられる。しかし、5階だけは白漆喰に柱や長押を露出させた真壁で、各面の両脇に釣り鐘型で装飾的な華灯窓がもうけられ、廻縁がしつらえられた。とりわけ5階の外観は、秀吉の大坂城に酷似していた。