桃山時代の威風を継承した美しい建築
また、屋根には三角形の屋根飾りである千鳥破風が8つもつけられた。関ヶ原以前の天守としては数が多く、非常に装飾的な外観だった。
一般には、破風は建築構造と一体のもので、このため内部には「破風の間」がもうけられ、防御のためのスペースとして活用された。しかし、広島城天守の破風はすべてが純然たる装飾で、建築構造とからんでいないので破風の間もなかった。
その理由について、広島大学名誉教授の三浦正幸氏は次のように書く。「(毛利輝元が)天守の内部構造を知らずに、大坂城に多数あった入母屋破風を誤認して飾りだけの特異な千鳥破風にしてしまったらしい」。しかし、「誤認」のおかげで、華麗な姿が創出されたということもできる。創建された当時は、軒先の瓦や鯱には金箔が貼られていたようだ。
大天守の高さは26.6メートルで、秀吉の大坂城の約30メートルにはおよばなかったが、創建当初は東方と南方に3重3階の小天守が連結し、明治維新を迎えるまで、その姿がたもたれていた。小天守をふくめた規模では大坂城にも負けないほどで、実際、秀吉から直接影響を受け、桃山時代の威風を継承した美しい天守だった。
「廃墟の姿こそ価値がある」という意見
原子爆弾の非人道性はいくら強調してもしきれない。その最たるものは、いうまでもなく14万人と推計される人々の命を奪ったうえ、被爆者を苦しめ続けたことである。それにくらべれば、文化財の喪失は小さなことかもしれない。しかし、私はそれ自体にはなんら罪がないこの宝石のような天守を倒壊させた一事をもってしても、原爆とそれを落としたアメリカが許せない。
米軍の攻撃によって失われた天守は、名古屋城(名古屋市中区)、岡山城、和歌山城(和歌山市)、大垣城(岐阜県大垣市)、水戸城(茨城県水戸市)、広島城、福山城(広島県福山市)の7棟で、水戸城を除く6棟は戦後、再建された。
その先頭を切って、昭和33年(1958)3月に竣工したのが広島城だったが、地元の思いは複雑だったようだ。再建の構想が持ち上がったとき、広島県文化財専門委員会では反対意見が多数を占めたという。「原爆で廃墟になった広島城の姿にこそ文化財としての価値がある」というのが、その理由だった。
また、いざ再建の方針が決定してからは、当時は木造のほうが建設費用を安く抑えられたのだが、「火災に弱い」という理由で退けられた。天守が焼失したほかの城も同様で、戦争の記憶が生々しい時期だっただけに、二度と失われず、ずっとその地にそびえるように、という願いが強かった。このため耐火性、耐久性を優先し、鉄筋コンクリート造で外観だけが復元されたのである。
幸い、広島城天守に関しては、戦前に国が作成した実測図が残っていた。外観を復元するにあたってはそれを土台に、ごく細部のデザインや寸法は、古写真のほか同じ時代に建てられた現存建造物などが参考にされたという。