「老年医療や専門分化医療の批判」はどう評価されるか

土居先生は肩書を得ることや権力闘争には無頓着でした。

それは目先の世俗的な成功よりも、死んでから自分自身や自分の理論がどう評価されるかということのほうがよほど大事だと考えておられたからだと思います。

2009年に土居先生は89歳で亡くなられ、その名も『「甘え」の構造』も残りました。しかし、私には死んでからも残るような著書はまだない。

ただ、私が老年医療や専門分化医療の批判を始めてから30年近く経っていますが、いまだに状況がほとんど変わっていませんから、先々評価される可能性があるかもしれないし、いま急に本が売れだしたのはその前兆かもしれないと期待を寄せてはいるのですが。

映画も撮り続けるつもりですけれど、一作ぐらいは死んだ後も見てもらえるものが撮れないかと夢見ています。

私の理想の死に方、死に場所、看取られ方

簡単に言うと、私は死ぬということを前提に生きているわけです。私が、おいしいものを食べたいとかワインを飲みたいとか、世に残る本や映画をつくりたいとか、そういう欲望に忠実に生きているのは、結局、死ぬときに後悔したくないからです。

だから、好きなものを食べて好きなことをやり尽くして、めいっぱい生きて、家で寝ていたら知らぬ間に死んでいた、というのが私の理想の死に方です。

写真=iStock.com/Ljupco
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できる限り自宅で過ごしたいですが、体が動かなくなってきたら施設に入るかもしれません。私は現在一人暮らしですから、施設に入る前にいわゆる「孤独死」する可能性もあります。

けれども、そもそも死ぬ瞬間は誰でも一人です。一人で死ぬのは可哀想だとか悲惨だとかいう発想は、メディアによる刷り込みだと思います。

私の場合は、一人で静かに死にたい。多くの人に看取られて同情されながら死ぬのは煩わしいので、最期は一人がいいです。

日本では多くの人に看取られて死ぬのが幸せという考えがありますが、欧米では家族で看取るということはあまり重視しません。

死期が近づいている末期がんの患者などの場合は、友人が一人ずつ見舞いに訪れて、ゆっくりと話すのが欧米のスタイルだそうです。私もそっちのスタイルがいいなと思っています。