一条天皇を引き付けるとっておきの品

当時、紙は高価であり、すでに寡婦で、父親もふたたび無官になっていた紫式部が、それを用意できたとは考えられない。紫式部は道長から紙を提供され、第一部のうち、光源氏の生い立ちや、藤壺および紫の上との関係を描いた部分、さらには、光源氏が須磨に流されたのち都に召喚される下りの途中くらいまでを、出仕するまでに書いた――。それが倉本氏の見解である(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

実際、『源氏物語』のそれに続く内容は、宮廷に出仕して宮廷政治の機微を目の当たりにしないかぎり、書けるとは思えない。だが、上記の部分までなら、出仕前でも書けなくはない。

それでは、道長はなぜ紫式部に『源氏物語』を書かせたのか。それは一条天皇に読ませるためだったと考えられる。より具体的にいうと、文才があると評判だった紫式部に物語を書かせ、中宮彰子のサロンに置けば、文学好きの天皇は物語への興味からも彰子のもとに通い、それが彰子への寵愛、ひいては皇子の出産につながる、という算段である。

結果として、寛弘5年(1008)9月、彰子は道長邸で敦成親王を出産した。その際、道長邸では『源氏物語』を書き写す作業も行われた。彰子が内裏に戻る際、一条天皇に奉呈するためだった。

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清少納言は「偉そうで利口ぶった風流気取り」

さて、紫式部が出仕した中宮彰子のサロンは、『紫式部日記』によると、非常に地味な気風だった。『枕草子』に描かれた定子のサロンが、廷臣たちの華やかな交流に彩られていたのと対照的に不愛想で、理由は、彰子のきわめて遠慮がちな性格に求められるという。

そうした状況では、かつての定子のサロンへの追憶が宮廷社会に生じても不思議ではない。それは道長には困った状況であり、道長の推挙で彰子のもとに出仕している紫式部にとっても、憂うべき状況だったかもしれない。

そう考えると、紫式部が清少納言を異常なまでにこき下ろした理由も見えてくる。『紫式部日記』には、清少納言について以下のように書かれている。

「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてははべるほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり。かく人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行く末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ」

現代語に訳すと、ざっとこんな感じである。

「清少納言こそ、得意顔で偉そうにしていた人です。あんなに利口ぶって漢字を書き散らしていますが、よく見ると、まるで足りない点が多い。こうして人に勝ろうとする人は、必ず見劣りして、将来は悪くなるばかりで、風流気取りが染みついた人は、まったくつまらないときでも情緒があるふりをして、趣があることは見逃すまいとするうちに、誠実でない軽薄な態度になってしまいます。そんな人の行く末は、どうしてよいことがあるでしょう」