中尊寺金色堂の輝きが意味すること
天平21年(749年)に始まった陸奥での砂金の産出に端を発する金を求める活動は、河原での砂金の採取に留まらず、やがて山地での金山開発へと進んでいった。
現在の岩手県南部から宮城県にかけて南北に延びる北上山地を中心に多くの金鉱床も発見され、それらを財源として、陸奥の平泉周辺には藤原三代の世が華開く。初代清衡の晩年(1124年)に建立された中尊寺金色堂は、その象徴といえるだろう(図表1)。
この奥州藤原氏は、藤原北家の系譜と位置づけられ、遠縁には西行がいる。遠い遠い同族。新幹線も飛行機もない時代、紀伊国田仲荘(現在の和歌山県紀の川市)を知行地としていた西行は生涯二度も平泉の地を踏んでいるが、遠い親戚であることと関係があるのだろうか。
最初は出家から4年後の天養元年(1144年)ごろ。二度目は文治2年(1186年)なので、なんと69歳の年。この旅の目的は、焼失した東大寺の再建を目指す重源上人の依頼を受け、奥州藤原氏に金の寄進をお願いするためである。12世紀末になっても陸奥には豊富な金が存在していたのだ(図表1)。
しかし、ついに15世紀になると、遣明船の朝貢品リストには金は見当たらなくなる。最初の発見から約700年、もはや陸奥には当時の技術で回収できる黄金は残っていなかった。
ただ南部地方の民謡「牛方節」に、「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」とその余韻を残すのみである。