「復元整備計画」の真っただ中だった

「熊本城復元整備計画」が策定されたのは、平成9年(1997)のことだった。そこには「30年から50年をかけて、加藤清正が築城した城郭全体(約98ha)を対象に、往時の雄姿を復元するとともに、市民や観光客に愛され利用される整備を目指す」と記されていた。

翌平成10年(1998)から早速、開始された第1期の事業は、築城400年祭が開催された平成19年(2007)までに完了した。

この間、西出丸一帯に南大手門、戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓が総事業費約19億円で復元され、平成11年(1999)の台風で倒壊した西大手門も、約5億円を投じて再建された。飯田丸には約11億円の事業費で飯田丸五階櫓が、本丸には約54億円を投じて本丸御殿大広間が、それぞれ復元された。

続いて、平成20年(2008)から29年(2017)の予定で、第2期の整備が進められ、震災に遭うまでに、本丸の南側に位置する竹の丸の馬具櫓と続塀などで、復元工事が終わっていた。その後も竹の丸五階櫓、数寄屋丸五階櫓、御裏五階櫓という3棟の5階櫓のほか、櫨方三階櫓、北大手門など、主要な建造物が続々とよみがえるはずだった。

ところが、いうまでもなく、あらたに建造物を再建するどころではなくなった。よみがえった建造物の大半は、土台となる石垣もろとも被災し、修復のためにいったん解体されてしまったものが多い。

地震で大きな被害を受けた「数寄屋丸」(写真=ブルーノ・プラス/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

10万個の石を同じ場所に積み直す

だが、なにより被害が大きかったのは石垣だった。残されている973面(約7万9000平方メートル)のうち、築石が崩落した箇所は229面(約8200平方メートル)と、全体の1割強におよんだ。

また、石積が緩んだり膨らんだりして積み直しが必要になった箇所は、517面(約2万3600平方メートル)と、全体の約3割に達した。ほかにも約70カ所(約1万2345平方メートル)で、上面が沈下または陥没したり、地盤に亀裂が入ったりしたという。

熊本城は全国の城でもほかに類を見ないほど、何重もの累々たる石垣に囲まれている。それだけに、被害も類を見ないレベルに達したといえる。

これらの石垣を積み直しながら、重要文化財に指定されている現存建造物や復元建造物を、元の場所に元どおりの姿で再建するのである。少なくとも、明治以降においては、これを上回るような城郭の修復および復元事業はなかった。

しかも、その修復には、気が遠くなるような膨大かつ緻密な作業が必要となる。1平方メートルあたり3~4個の築石が積まれていると考えると、積み直す築石の数は7万~10万個にもなる。しかも、ただ積めばいいのではない。すべての石を、崩落前に積まれていたのと同じ場所に積み直すのが原則なのである。

石垣が震災で崩れた箇所は、金沢城でも同様なのだが、後世、すなわち江戸時代中期から明治、そして昭和までに積み直された箇所が多い。慶長期(1596~1615)に大きく進化した石積み技術は、江戸中期以降は廃れ、築石にも小ぶりなものが使われるようになり、強度がたもたれなくなった。言い換えれば、かつての修復作業は、いまよりもかなり雑だったのである。