謙信は七尾城内に残った「能登衆」と協力しようとした
続けて、上杉謙信と能登守護・畠山家との関係を見てみよう。
謙信は祖父の代より、能登畠山家と親密な関係を続けていた。能登畠山家は、同国七尾城を拠点とする守護大名である。
しかし能登では内紛が続き、天文20年には、「七頭」の重臣連合が七尾城を攻めて、当主・畠山義続を降伏させる事件があった。勝利した七頭は、反対派を粛清すると、敗北した義続と一緒に剃髪して事態を収束させた。
以後、能登では七頭あらため「七人衆」(メンバーは時期によって変動する)による合議制の政治が敷かれていく。
だが、その後も能登国内は落ち着くことなく、謙信が関東で戦っていた時代の永禄9年(1566)、「七人衆」の主要メンバーが守護・畠山義綱とその父を追放し、まだ幼かった義慶を擁立して、遊佐続光・長続連・八代俊盛らが主導権を握ることになった。
繰り返される混乱のなか、「七人衆」は内部抗争もあって四人(温井景隆・遊佐盛光・長綱連、および平喬知)にまで縮小する。ここでは残るかれらを能登衆と呼ぼう。
義慶の息子で幼年の春王丸はまだ元服すらしておらず、謙信が北陸に目を向ける頃には、当主は不在も同然の状態と化していた。近江には、過去に能登衆が追放した畠山義綱が亡命していたが、もちろんこれが呼び戻される様子もない。
それまで謙信は能登衆と連携して、北陸を安定化させようとしていたが、守護不在の不安定な政体、能登衆同士の確執、そして不正確な情報による援軍要請から、この戦略方針に疑問を抱きつつあった。
能登の武将たちは、上杉謙信派と織田信長派に分裂した
たとえば元亀3年(1572)9月には重臣たちに宛てた書状で、「能州当方へ連々被申(能登衆は、上杉家に色々と意見を申し)」てくるが、能登衆からの連絡は事実と異なることが多く、「不審ニ候(おかしいところがある)」と述べている(『上杉家文書』)。不健全な政体が続いているせいか、重要な情報をまともに扱えない能登の者たちは、かなり危ういと不安に思っていたのではなかろうか。
その頃、謙信は長年争い続けていた関東の北条氏政、甲信の武田勝頼と停戦して、上方の信長と対決するつもりでいた。
そうすると、その進路にある能登一国が中途半端な空白地帯であるのは都合が悪い。
一方で信長も、畠山家中が反謙信派になることを願い、能登への介入を考え始めていた。
能登の政体が落ち着いていないのは、謙信にとっても信長にとっても危険であった。謙信と信長の関係が冷えていくのにしたがい、能登衆も二派へと分裂していく。
そのうち七尾城内は遊佐続光・盛光父子ら親上杉派と、長続連をはじめとする親織田派が対立するようになっていたのだ。
そして、前述したように天正3年(1575)12月から翌天正4年(1576)2月にかけて、能登衆の盛光と温井たちは、謙信に一向一揆と戦うための「御出馬」を要請した。
かれらは謙信出馬が果たされるなら「拙者式別して御先手仕り、御馳走申上げ」ますと述べた(『歴代古案』)。