朱子学の功罪

「商売は悪事」という偏見をもたらしているのは朱子学だから捨ててしまえばいい、と言うのは簡単だが、実際にはその朱子学がもたらした天皇への忠義が明治維新を成し遂げ「天皇の下での平等」も確立した。

朱子学を完全に捨てることは難しい。もちろん朱子学を排除した新しい教育を始めるという手もなくはない、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や中村正直の『西国立志編』はそうした方向性を示してはいた。だが一刻も早く西洋諸国に追いつくためにすぐにでも資本主義を確立しなければいけないのに、それでは時間がかかりすぎる。

渋沢の天才的発想

そこで渋沢は考えた。

歴史的に見れば朱子学とは儒教の一派で、儒教の開祖である孔子こうしの説を「発展」させたものと言われている。だから武士階級は朱子学を学ぶ前に孔子の教えを必ず学ばされる、それは武士階級にとっての常識である。ところが、英語では孔子の教え、つまり本来の儒教をConfucianism(直訳すれば「孔子主義」)と呼ぶのに対し、朱子学はNeo Confucianism(「新孔子主義」)と呼ぶ。両者は実際にはかなり違うものなのだ。

百科事典などには小難しい理屈が書いてあるが、両者の違いは私に言わせれば「朱子学は本来の儒教に比べてヒステリック」なのである。なぜそうなったか、歴史的理由があるのだが、それを解説するには紙数が全く足りない。この点に興味のある方は『絶対に民主化しない中国の歴史』(KADOKAWA刊)を読んでいただきたい。

ここでは要点だけ述べるが、孔子の儒教では「商売は人間のクズのやる悪事」などと決めつけておらず、それをヒステリックに叫んだのは朱子なのである。ならば儒教の根本である孔子の教えに戻ればいい。孔子の言行録である「論語」には「商売のすすめ」とも受け取れる言葉がたくさんある。肝心なことはこれなら元武士たちも抵抗なく受け入れられるし、新たな教育も必要ないということだ。まさに天才的発想である。

渋沢栄一『論語と算盤』(KADOKAWA)。論語の解釈を拡大し、商売上の規範とした