水と油をこじつけた『論語と算盤』
渋沢栄一の著書『論語と算盤』を悪意をもって評するなら、もともと「水と油」である「論語(儒教)と算盤(商売)」に深い関連性があると「こじつけ」たものである、という言い方もできるだろう。
本来の儒教では孔子に次ぐ聖人である孟子の言葉に「恒産無くして恒心無し」というのがある。「恒」という字は訓読みでは「つね」と読むが、安定した職業や財産をもたない人間は(生活に追われるから)しっかりした道徳心を持てない、という意味である。
渋沢のやり方は、この言葉を「だからこそ、われわれは定期収入を得られる商売をおろそかにしてはいけない、孟子はそう言っている」という言い方である。そのように拡大解釈できないとは言えないが、実際には孟子はそこまで言っていない。
商工業にも「武士道」はある
朱子学は士農工商にやかましいが、本来の儒教も士つまり学問で儒教を身につけた人間は、ほかの農工商つまり民衆より優れているという感覚があった。逆に言えば農工商には道徳などないということで、日本でも士つまり武士はやはり武士道という道徳を身につけており、その点で農工商とは違うという感覚があった。
だからこそ渋沢は商人になることを同僚に強く反対されたのである。だが、それ以後渋沢は「孔子の真意はそうではない」という言い方で倫理を説き、日本の資本主義を構築していった。ここは本人の言葉を引用しよう。
「武士道は、ただに儒者とか武士とか言う側の人々においてのみ行われるものではなく、文明国における商工業者の、よりてもって立つべき道にも、ここに存在することと考える。かの泰西の商工業者が、互いに個人間の約束を尊重し、たとえ、その間に損益はあるとしても一度約束した以上は必ずこれを履行して前約に背反せぬということは、徳義心の強固なる正義廉直の観念の発動に外ならぬのである」(『論語と算盤』渋沢栄一著 角川ソフィア文庫 一部表記を改めた)