朽ち果てたベッドが意味するもの

作品は明らかに何かを見る者に語り、問いかけているのですが、それが何なのかははっきりとはわからない。しかし、作者が理由もなくこのような装置をこしらえるとは思われないので、何らかの考えがあってのことに違いないとは察せられます。

作品はそれを洞察してほしいと静かに訴えかけているようでした。旧来的なアートの概念からは大きく逸脱したものだけに、強いインプレッションを覚えました。

塩田はこの個展の開催に当たって、「私は、とくに幸福でも不幸でもない毎日を送っている。そんな、うつうつとした日々を送っていると、ほかの人と会話さえも持ちたくなくなってくる。そして、うっくつがこうじてくると、ついには自分と日常を壊したくなってくる。作品のアイデアが動き始めるのは、そんなときだ」という文章を寄せ、その文章が「今回の展覧会に関連しているような気がする」としていました(個展資料より)。

落ち続ける水は、ベッドを洗い流しています。つまり「洗浄」作業を続けています。「洗浄」とは、汚れを取り去って汚れる前の状態に戻す作業です。いつ終わるともなくシャワーの水がベッドを洗い続けるのを見るうちに、ふと、この「洗浄」とは「再生」ではないのかという気がしてきました。

独自の発見や解釈は、鑑賞者にとっての作品

どんなものでも初めは新品です。それが時間の経過とともにいつしか汚れ、古びてくる。やがては朽ち果てる。図式的に表記すれば、

新品⇐汚れる⇐中古品⇐さらに汚れる⇐廃棄物

というルートがふつうの進行です。

それに対して「洗浄」は、

廃棄物⇐洗浄⇐汚れが落ちる⇐再生

というリバースルートとなります(この二つのルートをつなげれば循環ルートとなります)。

ふいに、塩田は自分を「廃棄物」寸前のように感じているのではないか、と思いました。つまり、錆びだらけの朽ち果てたベッドは塩田自身なのです。

とするならば、この「洗浄」は、自分が再び蘇るための、塩田にとっては切実な祈りと希望を秘めたものではないのか。とはいえ、その祈りあるいは希望が叶うかどうかは保証の限りではない。「洗浄」は「再生」が約束されたものではない。もし叶ったとしても、気の遠くなるような時間がかかるかもしれない。また、まったき「新品」に戻ることもない。

そういった文脈でインスタレーションを眺め直すとき、永遠とも思えてくるシャワーの放水に深い瞑想のようなイメージが想起させられてくるのでした。

ただし、塩田本人がそう考えていたかどうかはわかりません。前掲の文章を見ても、抑的な自分についてしか語られていません。しかし、アート鑑賞は、(作者の発信を含めて)さまざまな情報に沿ってのみ行われなければならないというものではありません。鑑賞者自身が独自の発見や解釈を行って何ら問題ありません。その独自の発見や解釈は、いわば、鑑賞者にとっての作品であり、ほかの誰でもない自分なりのオリジナリティの発露です。とくに現代アートの場合、そのことが当てはまります。