現代アートはどのように鑑賞すれば楽しめるのか。『「わからない」人のための現代アート入門』(大和書房)を書いた藤田令伊さんは「その作品が発している『問い』に注目するといい。その意味をあれこれ考え、自分なりの発見や解釈を見つけることは現代アート鑑賞の醍醐味といえる」という――。

※本稿は、藤田令伊『「わからない」人のための現代アート入門』(大和書房)の一部を再編集したものです。

現代アートを見るときの最初のポイント

私の場合、高く評価している作品は「見た目だけ」というものはほとんどありません。何かしらの意味や思想、メッセージが込められているもののほうに見応えを感じていることが多いです。

意味や思想、メッセージを内包している作品は、見る者に向かって「問い」を発してきます。たとえば、シンディ・シャーマンの《アンタイトルド・フィルム・スチル》がその一例です。

2006年11月30日、オーストリアのブレゲンツ美術館にて、米国人アーティスト、シンディ・シャーマンの「Untitled Film Stills」シリーズの作品を鑑賞する来場者たち。
写真=EPA/時事通信フォト
2006年11月30日、オーストリアのブレゲンツ美術館にて、米国人アーティスト、シンディ・シャーマンの「Untitled Film Stills」シリーズの作品を鑑賞する来場者たち。

ありとあらゆる自分が撮影されているさまは、無言のうちにも、見た者に「どうしてこんなものを撮影したと思いますか?」と問いかけてきます。見る者はその答えを考えないではいられません。つまり、鑑賞者は作品に引っかかりを覚え、考えを探してしまうのです。それが、作品が「問い」を発するということです。

そんなふうに「問い」の有無が一つのポイントになります。たとえ作品が何を伝えようとしているのかすぐにはわからなくても、何かを問いかけてきていることがわかれば、鑑賞者はその問いを詮索したくなり、それが作品の引力というべきものにつながります。それに対して、問いのない見た目だけの作品は、いわば、ただ独白しているだけです。

作品からコミュニケーションを求められる

「問い」と「独白」は、情報を発信しているということでは同じですが、相手とのコミュニケーションを求めているかどうかという点では違います。「問い」が相手の答えを期待しているのに対して、「独白」は自分の世界はこうなのよと、一方的にただ語っているのみです。

その場合、「独白」の内容が見ている側にも響くものがあれば、鑑賞者は共振したり共感したりできます。しかし、そうでなければ空振りに終わります。したがって、「独白」タイプの作品は鑑賞者にアピールするのが難しいです。

「問い」は、ただ問えばよいというものでもありません。いかにもというわざとらしい問いかけや、教条的すぎる問いかけでは見る側は白け、共感にはつながりません。かといって、言葉不足では、問いとは感じてもらえなくなります。つまり「問い」にもほどよい加減というものがあります。どれくらい、どういう問い方をすればよいかということは、アーティストのセンスが問われる重要なポイントであり、作品のカンドコロになります。

また、問いの内容、つまりテーマもポイントです。環境問題を問うているのか、人間の業を問うているのか、戦争と平和について問うているのか、社会の矛盾を問うているのか、宗教的な意識を問うているのか、あるいは形而上のテーマを問うているのか、問いの内容次第でやはり鑑賞者の共感あるいは共鳴は大きく変わります。