ジャイアンツよ、常に気高くあれ

私から見れば、原よりもずっと阿部の方が責任感が強く、選手への愛情も強い人物だと言えよう。二軍監督時代の阿部を見ていて、「お前のやっていることは間違っていない」とエールを送りつつ、同時に「阿部がチーム内で浮いてしまうことはないだろうか?」という不安も抱いていた。

けれども、一軍監督就任までの4年間、彼は決して妥協することなく、初志貫徹を実現した。こうした阿部の姿勢こそ、近年では薄れつつあった「ジャイアンツらしさ」を取り戻す契機となるのではないか?

ジャイアンツよ、常に気高くあれ――。

私が思い描いている理想を、阿部なら実現してくれるのではないか? 私は、そんな期待をしているのである。

かつてのジャイアンツは、常にチーム内に緊張感が充満していた。前述したように、チームリーダーの川上さんが厳しい人だったからである。ご存知のように、私は川上さんと折り合いが悪い時期が長く続いた。

その発端となったのは、私が早稲田大学を卒業してジャイアンツに入団したルーキーイヤーの1954年にある。

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「真ん中以外のボールは捕らない」と断言した真意

京都の西京極球場で、ショートゴロを処理した私の送球を、ファーストを守っていた川上さんはまったく捕ろうともしなかった。私は無性に腹が立って仕方がなかった。

今から思えば私にも非があるのだが、川上さんに向かって「あの程度のボールを一塁手が捕らないで野球になりますか!」と詰問してしまったのである。

あの頃の川上さんは自分の身体を中心とした四角い枠に収まるボールしか捕ろうとしなかった。ワンバウンドなど論外で、大きく足を広げたり、目いっぱい腕を伸ばしたりして捕球するということは皆無だった。

実際に川上さんは私を部屋に呼んで「オレは真ん中以外のボールは捕らない」とハッキリと言った。私は「なぜ捕らないのか? どうして練習しないのか?」と言いたいのをグッとこらえるのに必死だった。

こうした厳しさで他の野手陣に「きちんと送球しなければ」という意識を植えつけようとしていたのか、それとも単に守備に関する意欲が欠如していたのかはわからないが、私は「困ったことになったな」と悩んでいた。

そんなときに、私とショートのポジションを争っていた平井三郎さんが救いの手を差し伸べてくれた。平井さんは私にそっと耳打ちをした。