司法修習生時代は嘉子、久米愛と仲良くランチを食べていた

翌年、合格した3人は、いずれも丸の内の法律事務所で修習を行った。丸ビルのレストランに集まって一緒に昼食を食べたり、皇居の周りを散歩しておしゃべりを楽しんだりしたという。修習後、中田は戦後司法大臣も務めた岩田宙造の事務所に勤務するようになる。どのような仕事をしたのか。

清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)

「政治家や財閥の人に妾がいるのね。妾に産ませた子どもを、戸籍上は本妻の子にしてあるわけ。子と本妻には親子関係がないというための裁判をやりました。法廷では普通、当事者に敬称はつけません。私も政治家や財界の人の名を、『だれだれ』と呼び捨てにします。すると、裁判官はにやにや笑っていましたね。私は若い女で、相手は有名な人物ですから」

中田はほかにも婦人雑誌『主婦の友』で、法律相談の欄を担当するようになる。ここでも一番多いのは、男女関係の相談だったという。掲載される相談のほかにも、毎週相談の手紙が100通以上届いた。中田は掲載していない手紙にも返事を書いた。一人では間に合わず、後輩の女性にも手伝ってもらった。

夫の実家である鳥取県へ疎開し、そこで一生を過ごすことに

昭和14年に中田は結婚した。夫の吉雄は鳥取県若桜町の出身で、財団法人の東亜研究所に勤務していた。国策への貢献を目的とした調査機関であった。

戦争末期、吉雄は結核にかかり、病状が悪化した。空襲もはげしくなったことから、昭和20年4月に、中田は吉雄とともに、夫の実家である鳥取県若桜町へ疎開する。

若桜町は兵庫と岡山の県境に近い中国山地に囲まれた山林の町である。中田はここで弟の妻に教わりながら農作業をする。炎天下の水田に入って草取りをし、養蚕も手伝った。父が鳥取県の出身とはいえ、中田は東京生まれで東京育ちだった。慣れない農作業に苦労する日々だった。

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