もう1人のモデル、陸軍大佐の娘だった中田正子

三淵嘉子、久米愛とともに女性初の法律家となったのが、中田正子である。彼女は戦後鳥取市で弁護士事務所を開き、後には鳥取県弁護士会の会長も務めた。女性初の弁護士会会長である。地域で活躍する女性弁護士の先駆けだった。

中田には弁護士の佐賀千惠美が、昭和61年当時、健在だった本人に貴重な聞き取り取材を行っている。この記録を主な参考文献として、彼女の生涯を辿っていく。本稿で引用した中田の発言は一部を除き佐賀の『華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの』による。

明治43年、東京・小石川の生まれで、父親は田中国次郎、現在の米子市出身の元陸軍大佐だった。彼女は新渡戸稲造が校長だった女子経済専門学校を出て、昭和6年に日本大学法学部の選科として入学する。女性であるため正規の学生としては扱われていなかった。

中田は昭和9年に明治大学専門部女子部に編入する。

嘉子より1年早く、高等試験筆記テストに合格したが…

彼女は3人が高等試験司法科に合格する前年、昭和12年の試験も受験していた。この年、女性としてはただ一人、筆記試験に合格していたのである。「ついに女性弁護士誕生か」と話題になり、自宅には新聞記者が押しかけた。だが、口述試験で不合格となる。

中田正子、『アサヒグラフ』1954年5月5日号(写真=朝日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
中田正子、『アサヒグラフ』1954年5月5日号(写真=朝日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

中田は「普通に答えられました。私は当然、受かると思っていました。不合格だったのでびっくりしました」と語っている。当時は「女性だから落とされたのではないか」という声も上がったという。

だが、もしこの年に合格していたら、「初の女性弁護士」の肩書きは中田が一人で背負っていたことになる。おそらくそれは彼女にとって重荷だっただろう。

翌年の昭和13年の筆記試験で、今度は三淵と久米の2人が合格する。中田は彼女たちと一緒にこの年の口述試験を受け、今度は3人そろって合格できた。

「三人の母校明治大学を始めいろいろな団体が祝賀会や激励会を催してくださいましたが、殊に市川房枝さんの婦選獲得同盟ほか六つの婦人団体が共催の会では激励と期待のありがたい言葉を浴びるほどいただきました。当時のわれわれ三人は試験に合格したというだけで、それらに応えるだけの実力や気負いもなく、まったく受け身の形で聞いていたことを、今微笑ましく思い出します」(『追想のひと三淵嘉子』)