安田財閥の祖と言われる三善康信が好きだった「三」の数字

では、本家の第三銀行というか、第三国立銀行はどこへいってしまったのか。

戦前、三井・三菱・住友財閥に次ぐ、安田財閥という金融財閥があった。その創業者、初代・安田善次郎が設立したのが第三国立銀行(のち第三銀行)だ。善次郎はこれの他に安田銀行もつくったのだが、公的な融資は第三銀行、私的な融資は安田銀行と使い分けていた。

安田家は鎌倉幕府の問注所もんちゅうじょ執事・三善康信みよしやすのぶの末裔と称し、善次郎は数字の「三」が大好きだったらしい。ところが、善次郎の死後、1923年に安田財閥は傘下の安田銀行・第三銀行など11行を対等合併させて、新生・安田銀行(富士銀行を経て、現・みずほ銀行)を誕生させた。かくして第三銀行はなくなってしまったのである。

八十二銀行の例が示すように、普通銀行に転換した国立銀行は合併したり、破綻してその名を変えていった。

再び、第二銀行はどこへ行った?

では、第二銀行はどこに行ったのか。第二銀行は1874年に横浜で設立されたが、経営不振に陥って「整理」の状態になり、1928年に横浜興信銀行(現・横浜銀行)に吸収合併された。

この1928年という年は、第二銀行のみならず、多くの銀行が経営不振にあえぎ、銀行業界は淘汰と合併の嵐が吹き荒れた。

戦後の昭和時代、金融機関はガチガチの規制で縛られていた。金融機関は絶対につぶさないというのが大蔵行政の方針だったからだ。銀行が新しく支店を出すにも大蔵省の認可が必要だったくらいだから、金融機関の新設は非常に難易度が高かった。これに対して、戦前は良くも悪くも自己責任で、勝手につくっていいけど、つぶれそうになっても行政は手をさしのべないよ……という感じだった。

だから、1895年に817行あった普通銀行は、1898年に1485行へと莫大な数に増えていった。そして、1914年に第一次世界大戦が勃発し、空前の好景気に沸くと、急成長した中堅財閥は続々と銀行を設立。その数はますます膨れ上がった。