世界恐慌から脱した1933年、「非常時」からの復帰が求められた
かつては1931(昭和6)年の満州事変から1945(昭和20)年の敗戦に至るまでの期間を「十五年戦争」として一括する見方が一般的であった。しかし、今日の研究では1930年代における日本の政治外交は急激な変動を伴うものではなく、戦時体制の連続として捉えられないことが明らかになっている。1933(昭和8)年5月、塘沽停戦協定成立により日中関係は過渡的安定期に入り、同年半ばには高橋財政の成果により、日本経済は世界恐慌から脱却している。このように1933年を境として、日本国内では「非常時」の空洞化が認識されるようになるのである。
1933(昭和8)年10月頃になると、中央政界では斎藤内閣退陣と政党内閣復帰を求める声が高まっていく。とくに鈴木ら政友会執行部は「非常時」解消の目途がついた段階で、政権を円満な形で斎藤から政友会に移行させるべきだと考えていた。しかし、この年5月22日、高橋蔵相が斎藤に対して留任を約束したことは鈴木の期待を裏切るものであった。
軍部を抑えるため二大政党の政友会と民政党が接近した
5月24日、政友会元幹事長・久原房之助は一国一党論を宣言し、6月上旬になると、久原派は「非常時」未解消での政党内閣復帰は認められず、政党と軍部が連携した強力な挙国一致内閣樹立を求める檄文を公表する。これらは鈴木による党指導の行き詰まりに付け込んだ総裁派攻撃を意味していた(奥健太郎『昭和戦前期立憲政友会の研究』)。このため、斎藤内閣としても政友会との関係を鈴木ら執行部だけに依存できない状況になっていたのである。
当時の商工大臣・中島久万吉の回想によれば、この年秋、元老・西園寺公望秘書・原田熊雄の呼びかけで出席した「朝飯会」の席上、軍部抑制のためには政党の浄化と強化が必要であり、その手段として政民両党の接近が急務であると申し合わせていた。これに基づき、中島は政友会の島田俊雄、民政党の町田忠治を新橋の料亭で会談させ、斎藤の了解も得たうえで、政民両党幹部懇談会を開催することになる(中島久万吉『政界財界五十年』)。このように政民連携運動を御膳立てしたのは斎藤内閣の側であった。