2党が団結できなかったことが斎藤内閣総辞職につながった
12月25日の政民両党幹部懇談会には政友会から顧問・床次竹二郎、幹事長・山口義一、政調会長・前田米蔵、久原房之助、浜田国松、島田俊雄、山崎達之輔、松野鶴平、内田信也、望月圭介、山本条太郎、秋田清、川村竹治、民政党から顧問・町田忠治、幹事長・松田源治、俵孫一、小山松壽、頼母木桂吉、櫻内幸雄、富田幸次郎、小泉又次郎、小橋一太が出席し、憲政の基本は政党政治にあることを確認する。
民政党側は主流派のみが参加しているのに対し、政友会側は総裁派(山口、島田、松野、川村)に加え、1924(大正13)年の分裂時に残留した旧政友系(前田、浜田、山崎、望月、山本、秋田)のほか、久原派(久原、島田)、床次系(床次、内田)など、複数の勢力が混在していた。
当時、政民連携運動には、①満州事変期に協力内閣運動を展開した久原房之助と富田幸次郎を中心とするもの、②衆議院議長・秋田清(政友会長老)と小泉又次郎(民政党元幹事長)を中心とするもの、③鳩山一郎ら政友会幹部を中心とするもの、という三つの潮流があった(升味準之輔『日本政党史論』第6巻)。
先の懇談会出席者の内訳で明らかなように、政友会側で政民連携運動に関与していた勢力は一つではなかった。そのことがのちに政民連携運動の挫折と斎藤内閣総辞職をもたらすことになるのである。
レーヨンで急成長した帝人の親会社である総合商社が経営破綻
大正時代、日本経済は第一次世界大戦終結後の戦後恐慌、関東大震災に伴う震災恐慌により甚大な打撃を受ける。震災手形の処理問題は昭和初期まで引き継がれ、1927(昭和2)年に発生する金融恐慌の背景となる。
ちなみに同年4月に経営破綻した鈴木商店は大戦間期に急成長した総合商社の一つであった。当時、鈴木商店系列の帝国人造絹糸株式会社(以下、帝人)の株式42万株のうち、22万株が台湾銀行に担保として預けられていた。台湾銀行は日本銀行から特別融通を受けており、本来、帝人株式はその返済に充てられるはずであった。
その後、折からの人絹市場好況によって買い付けの動きが高まり、1933(昭和8)年5月30日、台湾銀行は帝人監査役・河合良成を代表とする買受団との間で帝人株式10万株を1株125円で売却する契約を交わす。まもなく帝人株式は値上がりし、買受団側は高配当を手にすることになる。