結局は価値観の問題
人生が計画通りになんかならないことを散々思い知らされてきた人間としては、ビジネス畑の専門家が事業計画みたいに「人生計画」なんて言葉を使って出産や子育ての「リスク」を論じるのを聞くと、フフッと微笑んでしまう。計画通りにいくなら、それは人生の醍醐味じゃないな。あと、出産子育てをリスクって見なす人は、あんまり向いてないかもしれないね……。
金融の専門家が「教育戦略」なんて言葉で家計の教育費支出に備えよと眉間に皺を寄せるのを見ても、散々受験につっこんできた下手くそなギャンブラーとしては、ああ私のやってきたことはしょせん教育道楽なんだろうな、とも苦笑する。受験にはお金がかかる。情報も必要だ。それは真実だ。
結局、お金の使いどころは人それぞれ、何を大切に生きたいかという価値観の問題だ。少子化社会で、好き好んでもいないのに厳しい受験なんかしなくていい。もっと他に人生の資源を投入できるものはたくさんある。食い倒れや着倒れという言葉もあるように、浪費と(自己)投資は紙一重。車や時計、不動産が好きでせっせとお金を払う小金持ちも多いが、でもそれはうまくいったら「投資」で、そうでもなかったら「浪費」と呼ばれるんだろう。
「子育て、本当に楽しかった」
受験道にお金を落としまくった母の末路、さてこれは投資だったのか浪費だったのか。これをネットの口さがない向きに醜悪な執着と呼ばれようとも構わない。大学4年生、22歳の若さで思いがけず母になり、あの大学の丘の上に自分の欠片を置いてきてしまった私が、あの丘の上へ自分の子どもを「彼らが」望む形で送り届けることには、それなりの意味があったのだ。
結果として、28年かけた壮大な伏線回収。振り返って「あーあ、子育て、本当に楽しかったなぁ」。春、いつになく遅い桜が咲き揃う中、そんなひとりごとだけが藤沢の空にふわふわ飛んでいった。