プロとアマチュアの間で揺れ動いていた選手
ベルデニックは練習中、笛を吹いてプレーを止め、動き方に細かく指示を出した。一部のアルゼンチン人選手がベルデニックの手法に激しく反発した。彼らは東欧を格下だと考えており、ベルデニックに細かく指示を出されることが許せなかったのだ。
「(ぼくは)不満はなかったです。それをやらないと試合に出られないので」
岩井の印象に残っているのはベルデニックに「時に長いパスを狙え」と指示されたことだ。ボールを奪ったあと、近くにいる中盤の選手に渡すだけではなく、状況によって前線の選手にパスを出せというのだ。
守備の選手も攻撃を意識しろという指示を受けたのは初めてだった。見本はやはりバレージだった。テレビ映像で最後列のバレージの動きを確認するのは限界があった。後に岩井はバレージの一挙一動を確認するためにイタリアまで足を運ぶことになる。
日本サッカー全体が動き出していた。
91年6月、2002年ワールドカップ日本招致委員会が立ち上がっている。翌7月、プロサッカーリーグの正式名称は「Jリーグ」と決まった。
9月15日、最後の日本リーグが開幕した。全日空SCは第1節で松下電器に1対1で引き分け、その後、ヤマハ発動機に3対4、日産自動車に0対1、読売クラブに0対1で敗れた。ようやく初勝利を挙げたのは、第5節の日立戦だった。
選手はプロとアマチュアの間で揺れ動いていたと反町は言う。
「読売クラブはもうみんなプロだった。大学に通いながらプロ契約を結んでいた菊原(志郎)のような選手もいた。日産(自動車)も全員の選手とプロ契約を結ぶという方針だった。一方で、プロ契約の選手に加えて、暫定的に社員選手を認めるというクラブもあった。
試合前、松下(電器)の永島(昭浩)や三菱(重工)の福田(正博)とか社員選手と、お前、どうするんだって話をした。永島はプロでやる、福田は最初、社員選手でやると言っていたのかな」
三浦知良は「本当のプロ」
反町は前年の90年7月に行われたダイナスティカップで日本代表に選出されており、永島や福田たち、他のクラブの選手と付き合いがあった。9月に北京で行われたアジア競技大会から、日本代表に読売クラブのラモス瑠偉、そして三浦知良が呼ばれている。
「知良はだいたい同じ時期に代表に入ったから、よく話をしたね。あっ、こういうのが本当のプロなんだなっていう感じだった。彼の家にも遊びに行ったけど、良いマンションに住んで、良い車に乗って。芝生の上では同じ立場だけれど、他の境遇は俺とはまったく違うなって見ていた」
反町自身はプロ契約に移行する気はなかった。
「うちの親父もサラリーマンで定年退職するまで同じ会社にいた。それが普通だという固定観念があったんだろうね。全日空は風通しのいい会社で、バブルの真っ只中だったので待遇も良かった。仕事でも信頼されているという感覚もあった。辞めてプロになるという気は毛頭なかった」
すでに20代半ばを超えており、現役生活はそう長くない。俺はそのまま会社員としてサッカーを続ける気だと永島たちに言うと、そうだよな、全日空いい会社だもんな、という答えが返ってきた。
92年3月、第22節のトヨタ自動車戦を0対0で引き分け、最後の日本リーグは12チーム中8位で終了した。4月、チーム名が全日空SCから「横浜フリューゲルス」となっている。