加茂の監督就任でチームの雰囲気が一変
翌91年、4月から全日空SCに加入する二人の選手がアルゼンチンへ留学している。順天堂大学の大嶽直人、そして東海大学の山口素弘である。
山口は1969年1月に群馬県高崎市で生まれた。前橋育英高校から東海大学に進んだ。岩井の2学年下にあたる。2年生と4年生時に東海大学は全日本大学サッカー選手権で優勝、ユニバーシアード日本代表に選出された。卒業が近づくと多くのクラブからの誘いを受けた。
「新橋の焼肉屋で、加茂さん、全日空(スポーツ)の人と会いました」
それまで加茂と面識はなく、日産自動車サッカー部の黄金期を作り上げた監督という知識だけだった。
加茂の口から出たのは意外な言葉だったという。
――読売(クラブ)と日産(自動車)を倒すサッカーをする。やりたかったら来い。
山口はこう振り返る。
「他のチームの人は、みんな来てくれ、すぐにレギュラーになれると。来て欲しいから、良いことを言いますよね。でも加茂さんは違った」
最初は、なんやこのおっさんと思いましたと笑う。
「面白いことを言う人だと加茂さんに興味を持ちましたね。勝負師の怖さ、迫力を感じました。それが加茂さんの手だったのかもしれませんけど」
約1カ月のアルゼンチン留学から帰国、全日空SCに合流した。
「大学卒業前の3月から試合登録できたんです。監督は塩澤さんで、明るいチームだなという印象でした。1回だけベンチ入りしましたが、試合には出ていないです。その後、ぼくと大嶽はユニバーシアード(代表)に行きました」
91年5月、シーズンが終了した。優勝は読売クラブ、全日空SCは7位だった。その後、加茂の監督就任でチームの雰囲気が一変したと山口は言う。
「加茂さんに、プロとは何かを叩き込まれました。お前らのプレーには生活がかかっているんだ、プロなんだから自分の足で金を稼げと」
「規律が大切」を体現したサッカー
練習を仕切ったのは、ズデンコ・ベルデニックだった。
ベルデニックは1949年に旧ユーゴスラビア、現スロベニアで生まれた。ユーゴスラビア2部リーグでプレーしたのち、指導者に転身した。
ドイツ体育大学ケルンで知り合った祖母井秀隆の誘いで、彼が監督を務める北摂蹴鞠団の短期コーチを務め、加茂の誘いで全日空SCのコーチに就任していた。
前田治は加茂=ベルデニックのサッカーは、相手がボールを持ったときの守備が特徴的だったと評する。
「一人目がボールを奪いに行く。その空いたスペースに別の選手がスライドして、追い込んでいく。その選手の場所はまた別の選手が埋める。一人でもやらない選手がいたら機能しない。
だから規律が大切だと口酸っぱく言われるようになった、練習時間でも1分1秒遅れても駄目だという風になった。当たり前のことなんですけれど、それでさえこれまでは徹底されていなかった」
組織での守備は今日では当然のことである。しかし、当時の日本のサッカー界はそうではなかった。
この頃、日本で初めて有料放送を行った衛星放送局「WOWOW」がイタリアの1部リーグ、セリエAの中継放送を始めている。
ベルデニックはACミランのサッカーを例にとり「ソーナプレス」と選手たちに説明した。これを英語に直訳した「ゾーンプレス」は加茂のサッカーを象徴する単語となった。
岩井厚裕はこう振り返る。
「(相手ボールになったとき)まずディフェンスはサイドに追い込んでいく。そしてボールを持った選手を囲い込んで、プレスをかけて奪う。奪ったら縦に速くボールを出して攻める」
守備から攻撃への速い切り替えである。