個人技頼みのサッカーは世界の潮流の中で時代遅れ

加茂は新たな試みを温めていた。

この年代の例に漏れず、加茂は70年ワールドカップで優勝したブラジル代表に魅せられた人間だった。円熟期に入っていたペレ、爆発的な突破力のジャイルジーニョ、華麗な足技のリベリーノ、頭脳的なポジショニングのトスタン、キャプテンで右サイドバック、カルロス・アウベルト・トーレスなど才能ある選手を揃えた史上最強のブラジル代表である。

ブラジル人の愛する、強くて華麗なフッチボウ・アルチ――芸術サッカーと同義になるチームだった。ところが4年後の74年ワールドカップ、ブラジル代表はオランダ代表に敗れている。優勝はそのオランダ代表を決勝で破った西ドイツ代表だった。

この大会から欧州の組織的なサッカーが主流になった。その流れが欧州に限らないと実感したのは、ずいぶん後の89年7月のことだった。

日産自動車サッカー部監督を辞した後、加茂はコパ・アメリカが開催されていたブラジルを訪れている。そこでセバスチャン・ラザロニが監督を務めるブラジル代表に感銘を受けた。

〈ブラジルが勝った70年以降はスピードが上がる一方で、中盤がどんどん狭くなってきていた。70年のブラジルのような芸術的な技術をもってしても、それだけでは通用しないようになっていた。速く、シンプルで正確な技術を使い、速いサッカーをしないと通用しない。
(中略)
当時はまだ「コンパクト」という言葉は使っていなかったが、チームの最前線から最後尾までを一定の幅に保つプレーは、まさにコンパクトそのものだった。攻撃ではダイレクトパスを使って前に行くのがものすごく速かった。
こうした戦術はヨーロッパでとくに発達したものだったが、ブラジルはそれを完全に消化し、しかもテクニックの高さはブラジルそのものだった〉(『モダンサッカーへの挑戦』)

加茂は日産自動車での最後のシーズン、リーグ、カップ戦、天皇杯の三冠を獲得している。しかし、自分のやってきた個人技頼みのサッカーは世界の潮流の中で時代遅れであることを改めて自覚した。全日空スポーツの雁瀬から誘いを受けたのはその直後だった。

加茂の理想とするサッカーを具現化しているチームがあった。イタリアのACミランである。

ミラノ市内中心部のACミランサッカークラブの店舗サイン
写真=iStock.com/ilbusca
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ACミランはロンバルディア州の州都ミラノを本拠地として1899年に設立された。50年代に賭博スキャンダルに関与し2部へ降格、その後は長らく低迷していた。86年、実業家で後に首相となるシルヴィオ・ベルルスコーニが会長に就任し、クラブを大きく変えた。

87年にオランダ人選手のルート・フリット、マルコ・ファン・バステンが加入、監督にアリゴ・サッキを招聘した。この年、10年ぶりのリーグタイトルを獲得している。

自分の目で国外のサッカーを観に行く

ミランのサッカーの特徴は、最終ラインと最前線の距離を30から50メートルに保つことだ。そして相手ゴールに近い場所でボールを奪い、得点に繋げる。

加茂は顧問という助走期間を利用して、選手たちに助言を与えた。ディフェンダーの岩井厚裕はヘッドコーチとなる木村から、フランコ・バレージのプレーを見習えと言われたという。

イタリア代表のバレージはACミランの守備の要だった。17歳で、ACミランの下部組織からトップチームに昇格。サッキ監督就任後は最後列で守備を統率し、攻撃の起点にもなっていた。

「今みたいにテレビで国外のサッカーが沢山観られる時代ではなかったんです。とにかく自分の目で確かめるしかないって、国立競技場までトヨタカップを観に行きました」

90年12月9日、ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップの勝者とリベルタドーレス杯の勝者によるインターコンチネンタル杯、通称「トヨタカップ」が行われた。この年はACミランとパラグアイのオリンピアの対戦だった。

このときミランはファン・バステン、フリットに加えて、もう一人のオランダ人、フランク・ライカールト、そしてイタリア代表のロベルト・ドナドーニ、アレッサンドロ・コスタクルタ、パオロ・マルディーニなどを擁した世界最強のチームだった。試合は3対0でミランが勝利している。