自分のことで苦しむことが成長を生む

むしろコンプレックスを持っているのは稀少なことになった。だから逆説的だけど、今はコンプレックスを大事にしなきゃいけない時代なんだと思う。

5分でコンプレックスを治そうなんてハウツーがあるけど、そんなことをやっても意味がない。あるいは、他人にどうせ私はダメな人間だからと、平気で言ったり、簡単に割り切って諦めるのもよくない。つまり、そこに戦いがないでしょう。コンプレックスを持つことの良さは、自分といかに戦うか、いかに苦しむかですよ。まさにそこが大事なんだ。

それを簡単に割り切ったり、5分で克服できたら、そんなのは何のエネルギーも可能性も沸いてこない。自分のことを振り返ってみても、子供のときに野球の選手になろうと思ったり、画家になろうとしたり、作家も目指したけど、みんなダメになるわけ。作家を断念して、まともな就職をしようと思っても、まわりは採用されていくのに、自分は就職試験に落ちる。俺はどうしてこんなにダメなんだろうと、どうして世の中に認められないんだろうと、自信を失う。大挫折だよね。

俺って何だろう。考えれば考えるほど、コンプレックスの塊になっていく。今から見ると大したことないのにね。だけど、当時は、なぜ俺は認められないんだと、そんなことにコンプレックスを感じてしまう。僕はずっとそのことで戦ってきたと思う。

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自分はテレビに出る人間だとは思っていなかった

せっかく入った会社もうまくいかなくて次々と転職したり……。テレビに出てしゃべるなんてことは、夢にも思っていなかった。人前でしゃべるなんてことは、僕にはとてもできない。適性がない、と思っていた。

就職試験で僕は、すべて面接で落ちた。なぜかというと、まず声が悪い上に、発音がはっきりしていないから、何を言ってるのかわからない。しかも、言葉に毒があるんだと思う。人相も悪い。明るい顔じゃないから、少なくともテレビに出る人間ではないと思う。

僕はテレビのディレクターをやっていたから、テレビ映りのいい顔、悪い顔はよくわかっている。長い顔よりちょっとポチャッとした丸顔がいいとかね。だから僕がキャスターを選ぶとしたら、絶対に僕を選ばない。ところが、今、僕はなぜかテレビでしゃべってるわけ。テレビに出てしゃべる適性っていうのは、じつは顔、声の良し悪しじゃないんだ。そのことに若い頃は気がつかない、コンプレックスの塊だからね。

じゃ、適性とか才能とは何か? たとえば、僕はとても野球が好きだった。中学、高校のときにやってきて、厚かましくも甲子園大会に出て試合をしたい、なんて思ったこともあった。ところが、肩が弱くて、足が遅くて……。野球が好きなのに、運動的センスでは人より劣っている。でも、今考えてみると、「野球が好きだった」ということ、それ自体が、僕にとっての才能なんだ。

他の人が面白いと思えないことに対しても、僕は面白がれる、そういう見方をすることができる能力がね。